朝になるとさすがに空腹を覚えた花は、のろのろと立ち上がった。
床にうずくまっているうちにいつの間にか眠ってしまったらしく、身体を起こすとあちこちの関節がきしんだ音を立て軽い痛みが走った。
そんな身体を持て余すように部屋を出ると、いつもと変わらず厨房から美味しそうな香りが漂ってきた。
その途端ぐうと腹の虫が音を立てたので、花は思わず顔を赤らめて小さくうめいた。
「ううっ…悩んでてもお腹空くなんて、私ってほんとに…」
言ってため息をついたところへ厨房から食器の乗った盆を持った王が姿を現し、ぽつねんと立ち尽くす花を見つけて目を見張った。
「おや、花殿! いま、ちょうど美杏さんに起こしに行ってもらおうと思っていたところだよ。朝ご飯はちゃんと食べて行けるんだろうね?」
「あ……」
どう答えようと花が躊躇うよりも早く腹の虫が先ほどよりも大きな音を出したものだから、花はみるみるうちに顔を赤らめ、王は満足そうな笑みを浮かべた。
「あはは。どうやら、今朝は食べてもらえそうだねぇ」
「……い、いただきます」
蚊の鳴くような声で答えてうなずく花に、王はにこにこと笑ってうなずき返しながら食堂へ食器を運びこんだ。
半日ぶりに口にした粥が美味しくて花はそれをすっかり平らげると、美杏に着替えを手伝ってもらってから職場である銅雀台へ向かった。
やけに胸が逸るのは一日振りに文若に会えるからだと思うと我ながら可笑しくて、微苦笑を浮かべながら花は足を速めた。
ほとんど駆け足にも近い速度で廊下を抜けると、文若の執務室の前で一旦足を止めた。
そして荒くなった息を抑えるように深呼吸をしてから、出来るだけいつもと同じに聞こえるようにと願いながら扉に手をかけた。
「おはようございます、文若さん。泊まりがけのお仕事、お疲れさまでした」
言いながら扉を開けた花だったが、室内に誰もいないことに気づくと頑張って貼付けた笑顔を強ばらせた。
「文若、さん?」
問いながら恐る恐る室内に足を踏み入れ卓や執務机をぐるりと見回したのだが、昨夜帰ってこなかった恋人の姿はどこにもなかった。
室内にひとり立ち尽くした花は、やがて微かに顔を伏せるとゆっくり肩を落とした。
「まだお休みしてるのかな? そうだよね、昨夜はきっとずっとお仕事していたんだろうし…」
意気込んだ分の落胆は自分でも驚くほどで、花は深いため息をついて卓の前の椅子に腰掛けると肩を落として頭を垂れた。
「文若さん、逢いたいよ。すごく、すごく…逢いたい」
呟いてため息をついてから顔を上げると、ちょうど部屋に戻ってきたらしい文若が扉の陰から顔をのぞかせたので、花は大きく眼を見開いて息を飲んだ。
文若は扉が開いていたことに怪訝そうに眉をひそめていたが、卓の前に花の姿を見つけてわずかに眼を見開いた。
「花…? ああ、もう出仕の時間だったか。ちょうど顔を洗ってきたところで……どうした?」
呆然としている花の様子に、文若は怪訝そうに眉をひそめて彼女の方へ歩み寄って行った。
すると花は我に返ったように肩を震わせてから、ぎこちない笑みを浮かべて首を大きく振った。
「な、何でもないです! おはようございます!」
「ああ、おはよう。昨夜はよく眠れたか?」
すっきりとした表情で言いながら部屋の中に入ってきた文若は、花のどこかぎこちない笑顔には気づかないらしい。
そのことにほっとしながらも、少しの寂しさを覚えた花は、いっそう口角を上げて笑んでみせた。
「はい。文若さんこそ、ちゃんと休みました?」
「大丈夫だ。朝方に少し仮眠を取ったのでな」
言って執務机に向かった文若は椅子に腰掛けると、昨日よりはいくらか片付いている書簡の山に手を伸ばした。
「今日の昼に上がってくる書類に目を通す前に、これらを処理してしまいたい。花、さっそくで悪いが、あちらに並べておいた竹簡を尚書省へ差し戻してきてくれ。あのような内容では、到底丞相府へ上げることなどできん」
「あ、はい…」
花がうなずいて文若を不安げに見つめ返したが、彼はもうすっかり尚書令の顔を取り戻していて黙々と筆を走らせ始めた。
その様子を花はしばらく所在なげに見つめていたのだが、やがて文若は顔を上げずに口を開いた。
「何をしている? 今日も仕事は山積しているのだから、気を抜いている暇はないのだぞ」
「ご、ごめんなさい!」
慌てて立ち上がった花は文若にぺこりと頭を下げると、そそくさと窓辺の棚に積まれた五つほどの書簡を抱え上げ、文若の方を肩越しに振り返った。
「これをお返ししてくればいいんですね?」
「ああ、頼む」
こちらを見ようともせぬまま抑揚のない声で告げる文若の様子に、花はほんの少し眉尻を下げて唇を噛んだ。
しかしぎゅっと目をつぶって頭を振ると、精一杯の笑顔を顔に貼付けて歩き出した。
「それじゃ、行ってきます」
「ああ」
相変わらず顔を上げようともしない文若をそのままに、花は執務室を出ると後ろ手に扉を閉めた。
そして小さく肩を落とすと同時に口をへの字に曲げ、鼻の奥がつんとする感覚をどうにか堪えた。
そのままとぼとぼと歩き出す花の足取りは、まるで病人のように覇気がないものだった。