その日から花は文若の邸で寝起きをし、朝になると文若と一緒に宮中に出仕するようになった。
最初の頃はその事実を知った孟徳が頻繁に執務室にやってきて、目を輝かせながら「文若、昨夜の戦況報告をせよ!」などとしきりにからかってきたが、それを文若は一切無視していた。
やがて文若と花の二人が同棲こそ始めたものの、婚儀をあげるまではとお互いに別室で休んでいるという事情を仕入れた孟徳は「文若、おまえ…ほんと、なにやってんの?」とさも呆れたように漏らすと肩をすくめて執務室を後にしてから、二人をからかうようなことはしなくなった。
おかげで二人は今度こそ心穏やかに、婚儀までの時間を過ごせそうだと安堵し合ったのだった。
しかしそうなると、さすがに邸に使用人が一人もいないというのはまずいと思うようになった。
いままでは、文若は邸にはほとんど帰らずに宮中の執務室に連なる私室に住んでいると言ってもいい暮らし方をしていた。
だから邸には誰もいなくても、特に支障はなかったのだ。しかし花を娶るからには、「家」というものを意識しないわけにはいかない。
そこで、まずは花の身の回りの世話をする者と、朝夕の食事の支度をする料理番を一人ずつ探すことにした。
そして幸いなことに、適任者はすぐに見つかった。花が孟徳軍に身を寄せるようになって時から部屋付きとして世話をしてくれていた女官と、文若と花の交流をさりげなく応援してくれていた宮中の初老の料理人が自ら立候補してくれたのだ。
それに昔から文若の側に仕えている従僕の青年と合わせ、三人の使用人を召し抱えることになった荀家は、主の婚約者たる花も加えて俄に活気づいた。
今までは家に戻ってもしんと張りつめた静寂しかなかった我が家であったが、いまは温かく美味しそうな匂いと共に、先に戻っていた未来の花嫁が嬉しそうに出迎えてくれる。
それはとても賑やかではあるが、この上なく幸せなことだと文若は感じていた。
そんな暮らしを数日続けていた文若だったが、近々に休みを取るつもりでいるならば、もう少し集中的に執務に時間をかけなければならないと思い始めた。
いままでと同じやり方では、とうてい安心して休みを取れるほど執務を片付けらないと気づいたのだ。
そこで今までと同じ時間に花だけを先に家に帰し、自分は残って深夜まで仕事を続けてから帰るようになった。
そうして数日それを繰り返したところで、ついに文若は執務室に泊まり込むという、以前と同じ暮らしぶりに戻ってしまったのだった。
従者の青年が足早に宮中に戻っていく姿を見送った花は、こっそりとため息をこぼすと邸の門扉をくぐった。
別に文若にまったく会えなくなったわけではない。今日も邸に帰ってくるまではずっと一緒だったし、明日も出仕すればまた会えるのだ。
だから寂しく思う必要などないはずなのだが、まるで胸にぽっかりと穴が空いたような感覚に捕われて、花はとぼとぼと歩きながらもう一度ため息をついた。
「文若さん…無理しなきゃいいんだけど。でもきっと、早く休みを取るために頑張ってくれてるんだろうな…わたしの為に頑張ってくれてるんだから、寂しいなんて思っちゃいけないよ、ね」
自分に言い聞かせるように呟きながら玄関を入った花は、ちょうど洗濯物を取り込んできた元女官の美杏とばったり鉢合わせてしまった。
彼女は宮中に居た時よりも軽装になっていたおかげか、花とぶつかる前に慌てて身を引くことができたのだが、花の沈んだ表情にも素早く気づいて眉をひそめた。
「花様…どうかなさいました?」
「…え? い、いえ、特になにも…」
慌てて否定しぎこちない笑みを浮かべる花を美杏は、洗濯籠を両手に持ったままじっと凝視した。そしてふたたび眉をひそめると、花の方へずいっと一歩詰め寄った。
「なにもないはずはございません。そのように、すぐれないお顔の色をなさっているというのに」
「……う」
さすがに短からぬ付き合いのある美杏からすると、花の感情の変化くらいは簡単にわかるようになっているのだろう。
これ以上彼女に接していると、うっかり胸の内を吐露してしまいそうだったので、花は精一杯笑顔を浮かべて首を振ってみせた。
「ええっと、ほんとうになんでもないんです。ちょっとお仕事頑張っちゃって少し疲れたので、今日は早く休みますね。だから今日のお夕飯はいらないって、王おじさんに伝えておいてください」
「え? ですがお休みになられるにしても、少しぐらいはなにか食べませんと……あっ、花様っ!」
美杏が怪訝そうに身を乗り出すのを振り切った花は、そのまま一目散に駆け出した。
その後を美杏の心配そうな声が追いかけてきたが、花は心の中で「ごめんなさい、美杏さんっ!」と謝りながら足を速めた。
そのまま自室に籠った花は扉を閉めると、灯りをつけようともせずにその場にうずくまって身体を丸めた。