「なにを笑っている…」
「ご、ごめんなさい。でも可笑しいとかそういうのじゃなくて……文若さんって、けっこうわかりやすいのかもって」
「なんだと?」
今度は唇の端を痙攣させはじめた文若に、花ははっとして慌てて頭を下げた。
「ごめんなさいっ! でも私、嬉しかったからっ」
「私が恥をかくのが、そんなに楽しいのか?」
「ちっ、違いますって! そうじゃなくて昼間のことです。慰めてくれたことも嬉しかったけど、私の話を真面目に聞いてくれたことが一番嬉しかったんです」
「お前の話?」
怪訝そうに言ってからほんの少しだけ険しい顔を緩めた文若の様子に、花はほっと息を吐いてからこくりとうなずいた。
「はい。みんなが仲良く出来ればいいって。そんな国になればいいのにって」
「……ああ。お前の目指したい未来、だったな」
小さく告げて花を見ると、彼女はまた神妙な表情を浮かべて小さくうなずいた。そして顔を上げると、はにかんだように微笑んだ。
「私の言ったことは文若さんからしてみれば子供の理屈だったかもしれないのに、ちゃんと聞いて受け止めてくれましたよね? 理想ばかりだってちょっと怒ってたけど、別の国から来た私だから言える意見だって認めてもくれました」
認めるもなにも、昼間彼女が主張した話は、おそらくこの国の民であれば一度は思い描く理想であろう。
文若でさえ、まだ国の仕組みや政の難しさなどまるでわからない幼い頃に、大人達は何故国を想うと言いながら争いをやめないのかと不思議に思ったものだ。
皆が仲良く手を取り合い理解し合えば、この国はきっと素晴らしい国になるのだろうにと無邪気に考えたことがあった。
それが長じるにつれその想いに蓋をして、忘れるともなしに脳裏の深いところに封印するようになっていた。
そのようなことは願うだけ無駄なのだと、いつからか当たり前のように思うようになっていた。
花の言葉を借りて言えば「成してみる前から成せるはずがないと決めつけていた」のだ。
それをこの目の前の少女は、いとも簡単に思い出させた。何故出来ぬのかと、真正面から問いかけてきた。
大人の分別だという理由で一蹴してしまうことは、恐らく容易かっただろう。
そうしたほうが遥かに楽であっただろうし、そうであったならきっと、この少女はこんな形で押しかけてくることもなかったかもしれない。
けれど文若はいまもなお、花が語った言葉を否定する気はなかった。彼女の話すことが実現したら、きっと誰にとっても幸せなのだろうと思うことも変わらなかった。
それはたぶん、文若自身の心の奥底で幼い頃からずっと消えず、いつか表に出ようと秘かに息づいていた想いと同じものだったから。
「お前は……」
文若の意識とは別に、口が動いて言葉が漏れた。花はそんな彼をじっと見つめ、文若はその瞳を改めて見返して目を細めた。
『ああ――やはり美しいな。誰かの瞳を見つめてこれほど心穏やかになるなど、いつ以来であろうか』
「……文若さん?」
口を開きかけそのまま黙ってしまった文若に、花が恐る恐る問いかけた。
彼女は微かに首を傾げ不安げに目を細めたが、その瞳は澄んだ黒のままで、やがて文若はふっと微かな笑みを浮かべてゆっくり息を吐いた。
そしてすっと立ち上がると彼の動きを目で追う花を見おろし、いつもと同じように眉間を軽く寄せてみせる。
「なにをぼっとしている。私の部屋に行くぞ」
「え? ぶ、文若さんのお部屋って……」
なにを思ったのか、ぱあっと顔を赤らめた花の様子に満足げな笑みを浮かべ、文若はそのまま歩き出した。
「なにを勘違いしているのか知らぬが、ここは仕事をする場であって食事をとる場ではない。そういった混同は、いずれ公私の混同にも繋がりかねん。お前の部屋は手狭だが、私の部屋ならば、二人分の配膳しても窮屈ではなかろう」
すたすたと扉の方へ向かう文若を追うように立ち上がった花は、さっと卓の上に置かれた自分の夕餉に手を伸ばしたが、文若は「それは置いていけ」と言い切って扉を開けた。
「え、でも……」
「部屋の方へ改めて用意させる。それはすっかり冷めてしまったようだからな」
「でも勿体ないです。せっかく作ってくれたのに……」「だからといってお前に冷めた食事をさせ、私だけ温かい膳を取るなどできん。かといって、その冷めた膳を私が食べるというのも願い下げだ」
生真面目に言って眉をしかめる文若の隣で、花はまじまじと彼の横顔を見上げた。やがてぷふっと軽く吹き出すと、微笑みを浮かべたまま正面伊向き直った。
「文若さんって、意外と贅沢なんですね。あと……ちょっと我が侭?」
「人聞きの悪いことを言うな。食にこだわりがあると言え」
「あははっ」
文若の言葉にころころと笑い隣を歩く花を忌々しげに一瞥してから、文若は回廊の向こうに視線を移して小さく嘆息した。
「……なんたることだ。まさかこの私自身が、一番理解できぬ存在となるとは」
「なにかいいましたか?」
「なんでもない……なにも言っておらぬ」
拗ねたように言ってそっぽを向く文若を見上げ、花はもう一度楽しそうに声を立てて笑った。