やがて扉の向こうから花の悪びれた風もない声と、文若の明らかに困惑し苛立っているような叫びに近い声の応酬が聞こえてきたので、侍女はただ息をひそめているしかなかった。
そうしてどれくらい時間が経ったか、小さな音を立てて扉が開くと頭を垂れた花の姿が視界に飛び込んできた。
やはりこっぴどく怒られたのだろうと、侍女が顔を曇らせて彼女の方へ身を乗り出すと花は顔を上げた。
だが侍女が案じた暗い表情は微塵もなくて、初めて見たかもしれない晴れやかな笑みを浮かべていた。
「すみません、お使いを頼んでいいですか? 文若さんの夕ご飯を持ってきてもらいたいんですけど」
「……え?」
慌てて花の身体の隙間から奥を伺い見ると、文若が卓の上に肘をつき、がっくりと肩を落としている姿が目に飛び込んできた。
どうやら先ほどの攻防戦は、花の奇襲が成功し彼女が勝利を収めたようである。
侍女はしばらく困惑した表情で文若と花を交互に見比べていたが、やがて小さく息を吐いてから軽く微笑んだ。
「畏まりました。すぐにお持ちいたします」
「お願いします」
にこりと微笑み返してから花はきびすを返し、眉間の皺を右手の指でつまみ苦々しげに顔をしかめている文若へ歩み寄って彼の前の椅子にそっと腰を下ろした。
「大丈夫ですか? なんだか疲れてるみたいです」
「ああ、多いに疲れている」
「それ、ずっと細かい文字を睨んでいたからかも。だからここで少し休憩して、私と一緒にご飯を食べましょう」
花の言葉に文若はゆるゆると顔を上げ、朗らかな笑みを浮かべる少女を睨みすえた。
「本気で言っているのか? お前のせいだと何故わからんのだ」
「ええっ! わ、私?」
心底驚いて目を丸くする花に、文若は長いため息をつくと、また首をがくりと前に倒した。
「休みを取ったほうがよいというのはわかる。だが、そこになぜお前と共に食事をするというのが付け加えられる?」
「それはもちろん、ご飯は一人で食べるより、他の人と一緒に食べた方が美味しいからですよ。楽しく食事すれば、元気も出ます!」
誇らしげに言って満面の笑みを浮かべる花の顔を、文若は唖然とした表情でしばらく見つめていた。やがて深く思い溜息を吐いて頭を垂れると、うつむいたままゆっくりと首を左右に振った。
「……まったくもって理解できん」
そうしてうつむいたまま深く息を吐き出す文若の姿を見つめていた花は、やがて肩を落とすとぺこりと頭を下げた。
「ごめんなさい。ちょっと強引だったかもしれないですけど、でも私、今日はどうしても文若さんと、お仕事以外でお話ししたかったんです」
花のやけに神妙な声音に気づいた文若はゆっくりと顔を上げ、ややうつむきがちに唇を噛んでいる少女に視線を向けた。
「私と話を? なにを企んでいる?」
「企んでなんか……あ、うん…ちょっとは企んでるっていうか……」
もごもごと口の中でつぶやいた花は顔を上げ、文若を澄んだ瞳で真っ直ぐ見つめた。
「昼間のお茶、すごく美味しかったんです!」
「……は?」
前後の脈絡もなくそんなことを言われても、文若にしてみれば当たり前だが、彼女の言わんとするところがわからない。口を半開きにして眉間にしわを寄せる文若に、花は怯んだ様子もなく言葉を続けた。
「私のこと信用してないって、文若さんはいつも言いますよね。でも、それって仕方がないかなって思ってました。私は孔明の弟子っていう肩書きで、玄徳さんの軍にいて策を立てていて……文若さん達からしたら、どうしたって敵軍の人間にしか見えないし」
「……ああ」
小さく漏らして口をつぐんだ文若の様子に、花はまた軽く下唇を噛んだ。だがすぐにまた口を開いた。
「だけど文若さんは今日お茶を入れてくれました。信用できないって言ってた、私を気遣って……」
「あれは……私が茶を飲みたいと思っただけだ。しかしいくらお前が疑わしくとも、懸命に読み書きをしている者の前で己一人休憩を取るわけにはいかん。……ただ、それだけだ」
「でも文若さんはあの時、私を慰めてくれたじゃないですか」
「慰めただと?」
「はい。自分が言った言葉が原因か?って訊いてくれたじゃないですか」
花が軽く口を尖らせて言うと、文若はぐっと言葉に詰まってきまり悪げに視線をついっと逸らした。その態度に花が思わず吹き出すと、途端に眉をひそめた文若は彼女に視線を戻してひくりとこめかみを引きつらせた。