Unexpected

(4)

夕刻、文若の執務室を辞した花は、宛てがわれた自室に戻ると寝台の上に寝転がって大きく伸びをした。

「んーーーっ! 今日も一日、働きましたぁ!」

満足げに呟いてから、天に伸ばした腕をぱたりと寝具の上に落とした花は、今度は大きなため息をついた。

「……なんて、仕事なんてほとんどしてないか。おまけに、初めて文若さんにお茶入れてもらっちゃったし」

言ってごろりと身体を横倒しにし、寝具の模様を指でなぞるように撫でた。

「監視するためだって言ってたけど……私のこと、少しは認めてくれるようになったって思っていいのかなぁ」と嬉しげに笑った花だったが、すぐにその笑いを飲み込むと顔を赤らめて寝具にぎゅうっと押し付けた。

「ううっ、思い出しちゃった……文若さんのことだから、絶対深い意味はないんだろうけど……」

「男の人に目が綺麗で見とれたとか言われたら……やっぱ意識しちゃうよ、もぉっ……」と、もごもご口の中で呟いた花はしばらくの間、寝台の上を悶絶しながらごろごろと転げ回っていた。

そう言った言葉を聞くこと自体は、最近少しずつ慣れてきたかもしれない、と思っていた。なんとなれば、花をこの軍に連れてきて、半ば強引に逗留させている張本人の曹孟徳は、それこそ息を吐くように口説き文句を連呼してくるからだ。

最初のうちこそ彼の「可愛い」「大好きだよ」に照れたり恥ずかしがっていた花だったが、近頃はむず痒さは相変わらずだが、「ああ、また言ってる」程度に受け止めることが出来るようになっていた。つまり甘い台詞に抗体が出来てきたのだろう。

ところが、いつも険しい顔をしている文若がそれを言ったのだから、花にしてみればまったく無防備だったところに不意をつかれた形で、どうすることもできなかった。 どう対処するもなにもただ頭が真っ白になってしまい、その後ふたたび手習いを再開したものの、正直なにを書いたのかまったく覚えていない。

それでも普段ならば、文若がそれに気付いて「なにを惚けている。私はお前を遊ばせるために執務室に呼んだわけではないぞ」ときついひと言をかけられ我に返るのだが、今日はその文若のほうも心ここにあらずといった風情で、花の状況にまで気を使う余裕がなかったらしい。夕刻近くになり副官が執務室を訪ってはじめて、花を部屋に帰す時間がとうに過ぎたことを思い出したくらいだ。

それからなんとなく視線を逸らしたままふわふわとした心持ちで自室に戻った花は、こうして改めて寝台の上で悶えているわけだが、ひとしきり寝具の上を転がったところで、まるでスイッチが切れたように動きを止めた。

「でも……だからって、私のことを完全に信用してくれたってわけじゃないんだよね…」

つぶやいて枕を胸元に抱きしめた花は、寝台の上で仰向けになって天蓋をぼんやりと見つめた。

「信じてもらえないって悲しいな。本当のこと言えないのって辛いよ……私は、文若さんに死んで欲しくないだけなのに」

いまは手元にない不可思議な本に記されたその箇所は、忘れたくとも鮮明に脳裏にこびりついている。

――漢王朝の再興を願う文若と孟徳との間には亀裂が生まれ、文若は自ら命を絶つ

その記述を目にした時は、それほど文若のことを知っていた訳ではない。ただどのような形であれ、見知った人間が無念の死を迎えるというのを知ってしまったのだから、気分が良いはずはない。出来ることならば、それを未然に防ぎたいと望むのは、人として当たり前のことだ。

他にも孟徳に渡してしまった九天九地盤を取り返さなければいけないという事情もあり、せっかく迎えにしてくれた趙子龍に帰れない旨を伝えて孟徳軍に留まった花だったが、その後少しずつ文若と接する時間が増え、その人となりを知ると、彼を助けたいと思う気持ちが次第に強くなっていった。

彼ほど真面目に、一途に、この国の行く末を按じ、平和と安寧を願う人物はいない。

その担い手が曹孟徳であると信じ、彼の覇道を全身全霊をかけて守り貫こうとしている文若がどうして、いったいなにに絶望して、自ら命を絶とうとするのか、いまのところ花には想像もつかない。

だからこそそんな恐ろしい未来が来ぬよう、自分に出来ることを精一杯やってみようと思っている。

だが、それを文若本人に告げるわけにはいかなかった。自分が死ぬ未来の話など誰も聞きたくはないだろうし、何よりそれを教えるということは、自分の正体を明らかにすることであり、孟徳の元にある九天九地盤の秘密を話すことになるからだ。

「――正義の味方って、いつもこんな気分なのかなぁ」

昔見たヒーローアニメの主人公の姿をぼんやりと思い出した花は、妙なことに感心しつつ身体を起こし手に持った枕を玩んだ。それから不意に立ち上がると、枕を寝具の上に投げるようにして戻してから、小走りに扉へ駆け寄って勢いよく開けた。

すると今まさに声をかけようとしていたらしい部屋付きの侍女が、急に開けられた扉に驚いて立ちすくみ、厨房から運んできた夕餉の膳を手にしたまま何度も瞬きをした。

「は、花様?」

彼女の手にある膳を目にした花は、突然にこりと笑うと侍女に向かって両手を伸ばした。

「よかった。ちょうど取りにいこうと思っていたんです」

「え?」

困惑する侍女から膳を取り上げると、花は「ありがとうございます。じゃ、ちょっと行ってきますね!」と元気よく告げて歩き出した。その後ろ姿をしばらく見つめていた侍女は、やがて我に返ると慌てて彼女の背を追いかけた。

「あ、あのっ花様? ど、どちらへ?」

「文若さんの執務室です。たぶんまだお仕事してるから、自分の部屋じゃなくて執務室でご飯を食べるだろうなって思うので」

「え? あ……おっ、お待ちくださいっ!」

予想外の答えに目を白黒させた侍女だったが、またすぐに気持ちを切り替えると花の前に回り込んだ。

「確かに文若様はまだお仕事をされていたようですが……執務室にいらっしゃるときは、いつもお食事はお取りになりません」

「……え? だ、駄目じゃないですか! そんなの身体に良くないですよ!」

侍女の言葉に驚いた花は頬を膨らませて怒ってみせると、軽くうなずいてから再び歩き始めた。

「わかりました。それなら、なおさら一緒に食べた方がいいですね。私、声をかけてきますっ!」

「えええっっっ! はっ、花さまっ!!」

悲鳴に近い声を上げて侍女は花の背に追いすがったが、彼女は驚くほど俊敏にその手をすり抜けてあっという間に回廊を渡りきってしまった。そして侍女が息を切らせて追いついた時にはもう、文若の執務室の扉を笑顔を浮かべて叩いていた。

「文若さん。花です」

「なんだ? 忘れ物でもしたのか?」

「そうじゃないですけど、入ってもいいですか?」

「……かまわん」

「はっ、花さまぁっ!」

侍女が伸ばした手は、あと一歩のところで花の身体に届かず、花は自分の膳を手に持ったまま執務室の中に姿を消してしまった。