「私は……っ」
身を乗り出して口を開いた花だったが、文若が視線を戻して凝視した途端にすっと身を引き、だんだんと顔をうつむけて押し黙ってしまった。そうして部屋の中を沈黙が支配し始めた時、花が消え入るような声を漏らした。
「……いまは話せないことばっかりですけど、でもこれだけは信じて欲しいです。私は文若さんとも孟徳さんとも仲良くしたいっていうか……できることがあれば、お手伝いしたいって思ってます」
「それは、玄徳たちと正式に決別するということか? 我が軍に帰順するという宣誓なのだな?」
文若の冷静な言葉に、花はうつむいたまま何度も首を振った。
「玄徳さん達のことだって心配してます。だれも……死んで欲しくないです」
「それは無理な話だ。このまま丞相の敵で居続けるならば、彼らはいずれ排除せねばならない」
劉玄徳は以前、曹孟徳に助けを求め、彼はそれを受け入れた。しかしすぐに玄徳たちはその恩を忘れ、あろうことか孟徳を暗殺する企みに加担し、発覚するや否や逃げ出したのである。 そんな相手を何度も許し懐に入れるほど、曹孟徳は甘い男ではない。むしろ一度裏切った相手ならば余計に、とことん追い詰め総てを抹殺するまで許さない激しい気性の持ち主だ。
それを花にわからせようとするのだが、彼女は頑なに首を振り「そんなの駄目です。それじゃあまた恨みや憎しみが生まれちゃう……そんなの、絶対駄目なんです!」とただ繰り返すだけで受け入れようとはしない。 それどころか顔を上げると文若をまっすぐに見つめ、ほとばしるように叫んだ。
「じゃあ、文若さんはそれでいいんですか? 悲しみや苦しみばっかり生まれる戦をずっと続けていくの、いいと思ってますか?」
こんなことを、正面切って尋ねられたのは初めてかもしれない。文若は一瞬目を見張って息を飲んだが、すぐにまた花を睨むように目を細めた。
「そうだな。個人的には、そのような負の連鎖が続くことを望んだりはせぬ」
「だったら」
「だからこそ、新しい世を築かんと戦っておられる丞相をお助けしている。あの方が目指す先にこそ、この国の安寧があるのだからな」
「でも、その新しい世を作るために戦を繰り返すのは、なんだか違う気がします。たくさんの人が犠牲になる未来なんて、おかしいと思いませんか?」
「変わるためには、幾ばくかの犠牲もやむを得まい。痛みの伴わぬ変革など、夢物語に過ぎぬ」
きっぱり言い切る文若の前で、花は肩を怒らせて立ち上がった。そして両の拳を握りしめながら何度も首を振った。
「駄目です、そんなの! そんな風に最初から夢だって諦めちゃうなんて! やる前から諦めるなんて、ただ逃げてるだけですっ!」
「なんだと?」
勢い込んで花が叫ぶのと、文若が細めた目を冷たく光らせたのはほとんど同時だった。
「お前はこの国の人間ではないと言ったな。ならばそのお前に、この国の絶望が、怨嗟がどれだけわかるというのだ! 戦も餓えもない国から来た小娘が、現実も見ずに生意気なことを言うな!」
文若のこわばった表情を目にした花は、はっとした顔で息を飲んでから、ゆっくりと椅子に腰を降ろしてから肩を落として小さくなった。
「……ごめんなさい」
「……」
「そうですよね……私、何も知らないのに……ここのこと、なにも……」
すっかりしょげてしまった花を、文若はしばらくきつい目で睨んでいた。やがて息を吐いて緊張を解くと、眉間に指先を添えて口を開いた。
「……まったく理解できん。その思考も、言動もなにもかもが、私にとって想定外で未知な存在だ」
「………」
ほんの少し上げた花の顔をまっすぐ見つめた文若は、ほんの少しだけ口元に笑みを浮かべた。
「だが……だからこそ、お前の言葉は真実だとわかる。正論は、時に耳に痛いものだからな」
今度は思い切り顔を上げ、ぽかんと口を開けてみせた花の表情に、文若はくっと喉の奥で笑ってから表情を引き締めた。
「おい。年頃の娘が、そのように締まりのない顔をするな」
「……え? あ、すっ、すみませんっ!」
ぱちぱちと自分の頬を両手で軽く叩く花から視線を背けて軽く笑ってから、文若は再び茶碗を手に取った。
「お前は我々の常識からはみ出した存在だからこそ、この世の歪みがわかるのだろう。常識に囚われず、正しき道を見いだすことが出来るのだろうな」
「文若さん……」
「そうだな。お前の言うような未来がくるのならば、私は……」
ゆっくり顔を上げて花の瞳を見つめ返した文若は、目の前の少女の瞳がとても美しいことに気がついた。
いつの頃からか文若は、対する相手の瞳を見ることを厭うようになっていた。耳に優しい言葉を告げる人間ならば、いままで何人も接してきている。賢い者や地位のある相手も、立場上大勢見てきた。だがその大半は紡ぐ言葉や立場とは裏腹に、濁ったり暗い瞳をしている者ばかりだった。
ともに夢を語り未来を誓い合った友達さえ、数年後に再会してみれば、権力に溺れ、未来に失望した姿を見せつけられることが多く、それが情けなくも苦痛となっていった。
そうして次第しだいに、相手の瞳を見るのを避けるようになっていた。最初から見なければ、失望することも絶望することもないからだ。
だから出会ってから今まで、この一風変わった娘の瞳も見てはいなかった。丞相やその右腕たる自分に媚びてくる娘ならば、これまでも少なからず会ったことがあるからだ。
だが目の前にいる少女の瞳は、いままで見た誰のそれよりも澄んでいた。顔立ちこそ飛び抜けて美しいというわけではないが、瞳の輝きはまるで生まれたばかりの純粋無垢な赤子のそれと見まごう清らかさだ。
初めて会った時、彼女は孟徳からの「どこから来たのか?」という問いに、戦のない国から来たと言っていた。
彼女の故郷では日々の糧の心配をする必要はなく、子供は等しく教育を受けられるのだと。
「なにを世迷い言を。間者としての言い訳にしても出来が悪すぎる」と、その時は苦々しく思ったが、いまはどうしてかその言葉を信じる気になっていた。きっとそのような国で育ったからこそ、彼女の瞳はこれほどまでに美しいのだろうと思えたからだ。
言葉の語尾を飲み込んだまま、文若がじっと見つめ返してくるものだから、やがて花は居心地が悪そうにもじもじと身体を揺らして顔を紅色に染めた。そうして文若から視線を外すようにうつむくと、消え入りそうな声でぽつりと言った。
「……ご、ごめんなさい」
すると文若はようやく我に返ってからきまり悪げに花から視線を外したが、すぐに眉間にしわを寄せてうつむく花を一瞥した。
「なぜ謝る?」
「だ、だって文若さん、怖い目で睨んでるから。私、また余計なことしてしまったのかなって」
「別に怒ってなどいない。……あまりの美しさに、つい、見とれてしまっただけだ」
口をすぼめて反射的に本音を漏らしてしまうと、その小さな声を耳にした花は弾かれたように顔を上げた。
「え? み、みとれて、って……」
「なっ? い、いやなんでもない。ただ物珍しいから見ていただけで、別に他意など……お前の瞳の輝きに、吸い込まれそうだなどと……」
「……え?」
反射的に漏れた花の驚く声を耳にして、文若はまた自分が言わいでもな言葉を口走ったことに気がついた。そして花の顔を見ないよう顔を背けて立ち上がると、切れ長の目を限界まで細めくしかめてみせた。
「きゅ、休憩はここまでだ! お前も余計なことを気にする暇があったら、間者の疑いを晴らすべく我々の役に立てるよう努力してみろっ!」
照れくささと決まり悪さにいたたまれなくなった文若は,ひときわ大きく怒鳴ってから、花を残して文机のほうへ逃げるように向かうと無言で腰を下ろして筆を取った。