盆を手にしたまま自身の執務室にたどり着いた文若は、扉を開ける前に一旦立ち止まると、特に乱れてもいない襟を軽く直した。それからことさらに眉をしかめてから扉を開け、口を開こうとしたところで、中にいた花の様子に息をのんだ。
文若が退出した時のまま、花は文机の前に座って筆を握りしめていた。だが先ほどとは違い、慌てて上げた彼女の瞳は真っ赤に充血し、その頬は墨で薄く汚れていた。 文若の姿を確認した花は、また慌てて筆を置くとごしごしと目元をこすって笑んでみせ、すっくと立ち上がると卓の上に広がっていた竹の札をまとめ始めた。
「お、お茶ですか? 言ってくれたら私が取りに…あ、そっか……」
ぽつりと呟いて視線を落とした花は、足れた前髪で目が見えないまま微かに笑った。
「私、敵軍の人間ですもんね…あまりうろうろしちゃ駄目だって、さっき言われたばかりでした」
「……戻ってくる途中、厨房の前を通ったのでな。急に思いついただけだ」
仏頂面のまま文若は卓へ歩み寄ると、花がまとめた竹札をさらに押しやって、運んできた盆をそっと乗せた。それから無言できびすを返したかとおもうと、そのまままた執務室を出て行ってしまった。
「文若さん…?」
ひとり残された花は文若が消えた扉をしばらく見ていたが、やがて「…ふぅ」と小さく息を吐いてすとんと椅子に腰を下ろした。彼の表情から察するに、また自分は余計なことを言ってしまったのだと思うと、また目頭が熱くなってきた。
「あんな言いかた、嫌みだと思われちゃったのかな。物覚えの悪い子だって、呆れさせちゃったかなぁ……」
更に大きなため息をついて肩を落とすと同時に文若が、険しい表情を変えずに扉の向こうから突然姿を現したので、花はびくりと身体を震わせあわてて顔を上げた。 すると文若はなおも無言のまま花の前まで歩み寄り、いきなり腕を伸ばしたかと思うと彼女の顎を上向かせ、持ってきた布で頬を乱暴に拭い始めた。
「ひゃっ! い、いたたっ!」
「うるさい。自分で汚したのだ、少しくらい我慢しろ」
まるで子供をしかるように吐き捨てた文若だったが、その手の動きは少しだけやさしくなった。ひやりと冷たい濡れた布が自分の頬を丁寧に拭っていく感触が心地よくて、花は眉間に寄ったしわを緩めて口をつぐんだ。
「まったく。墨の着いた手で顔を拭うなど、まるで童ではないか」
「ごめんなさい」
謝る花の言葉に無言を返し、文若は丁寧に少女の顔を拭き続けた。そうして頬の薄墨を綺麗に拭うと、手にしていた布を花の掌にすっと押し付けた。
「手も汚れているだろう。……茶を飲むのは、その後だ」
言って花の側を離れた文若は、彼女の視線から逃れるように卓へ向かい、伏せて置いてある茶碗を二つ持ち上げた。
「文若さん…」
小さく呟いてから花は、口元に微かな笑みを浮かべた。そして渡された布に目を向けてからにこりと笑い、手指についた墨を丹念に拭き取り始めた。
渡された茶碗を慎重に口元に運ぶと、ほんのりと温かい紅茶を口に含む。自分のいた世界ではどこにでも売っていたお茶だが、こちらでは貴重な嗜好品だと聞いたからか、それは今まで飲んだどんなお茶よりも美味しく感じた。
「……美味しい」
心の底からそう思っているらしく、緩みきった表情を浮かべてつぶやく花の様子に、文若もつい口元がほころびそうになったが、慌てて眉間の力を入れてごまかしながら茶を一口すすった。 そうしてしばらくの間、黙って互いに茶をすすり合っていたが、花が満足げな息を漏らして茶碗を一度卓に戻したところで、文若はちらと彼女に視線を向けて口を開いた。
「私の言葉が…原因か?」
「……え?」
目を見開いてこちらを見返す花から少し視線を逸らし、文若は茶碗を手に持ったまま言葉を続けた。
「私は間違ったことを言ってはいない。ここに来て数ヶ月の間目立った動きはないとはいえ、お前が玄徳軍の間者である可能性はいまだ捨てきれない。例えお前がそうではないと言ったところで、それを証明できる証拠がないのだからな」
先ほどまでの安堵した表情が消え、ふたたび頭を垂れた花の姿に、文若はわずかに眉をひそめた。そして茶碗を卓の上にゆっくり置くと、小さく嘆息してから言葉を続けた。
「だが、お前が間者であるという証拠も、またあるわけではない。だから……」
花が顔を上げると、文若はすっと視線を逸らした。それからことさらに眉をひそめつつ額を右手で軽く撫でた。
「お前のような者は初めてだ。言うこと、成すこと、総てが荒唐無稽で突拍子もない。年頃の娘、いや、誰もが知ることをまるで知らず、童よりも出来ぬかと思えば、驚くほどの知恵や助言を簡単に口にする。いったい……お前は何者なのだ?」