とにかく不可解であり、非常識であり、不愉快だ。
そう叫びそうになるのをぐっとこらえると、その代わりに深いため息が口をついて漏れた。
そうして眉間に寄った皺を右手の人差し指と親指で摘むように押さえながら軽く首を振った荀文若は、ゆっくりと視線だけを目の前に座る少女に向けたかと思うと、ぐっと姿勢を正して切れ長の目をきらりと光らせた。
「おい、誰が休んでいいと言った!」
するどく発せられた声にびくりと肩を震わせた少女=山田花は、閉じかけていた目をぱっちり開けると、慌てて筆を持ち直し竹の札の上に墨を落とした。
「あっ! …お、落としちゃ」
「そこは後で削ればいい。空いているところに、改めて最初から書き直せ」
「は、はいっ」
緊張した面持ちでこくこくとうなずくと、花は改めて筆を短く握り直して慎重に筆先を竹の上に降ろした。そうして怖々と筆を動かす様をしばらくじっと観察してから、文若は小さく息を吐き出しすっくと立ち上がった。つられるように顔を上げた花を目を細めて見おろしてから、文若は椅子を動かして卓を離れた。
「少し出てくる。お前は、そのまま手習いを続けているように」
「え、あ、はい。あ、あの…どこへ?」
背中から追いかけてくる花を振り返らずに扉を開けた文若は、いつの間にか手にしていた二本の竹簡を軽く持ち上げてみせた。
「中書令からの文書の差し戻しだ。このような内容では、到底上奏許可など出せんからな」
「そうですか……あの、文若さん!」
「なんだ?」
「それ、届けるだけなら私が行ってきましょうか? だって文若さん、まだお仕事がありますよね?」
「ああ」
「だったら、届けに行く時間がもったいないです。私が…」
筆を持ったまま立ち上がる花の気配に気づいた文若は肩越しに振り返ると、細い目を更に細めて口を開いた。
「そうして私の見えぬところで書簡の中を盗み見て、玄徳の元へ情報を流そうという魂胆か?」
「え……そっ、そんなことしません!」
憤りのためにさっと顔を朱に染めた花は、軽く下唇を噛んで文若を睨みつけた。
「どうした、図星か?」
「ちっ違います! そんなこと考えたこともないです! 第一、私は字が読めないって言ったじゃないですか。だから、こうして読み書きを…」
「さて、どうであろうな」
「え?」
「お前の言うことが正しいのかどうか、誰も証明は出来ない。だが、読み書きが出来ぬ振りなど誰にでも出来るが、読み書きすら出来ぬ者が兵法を知り軍略を立てられるなど、ついぞ聞いたことがないのだが?」
文若の言葉に花ははっとしたように息を飲むと、やがて視線をゆっくりと床に落とした。
「それは……」
言葉に詰まる花を黙って見つめてから、文若はきびすを返して開けた扉を後ろ手に閉めた。
「とにかく、言われた通りにしろ。間者であろうがなかろうが、敵軍にいた者をそう気安くうろつかせるわけにはいかん」
「……はい」
花の掠れた声が漏れ聞こえてきたが、文若はそれを無視して歩き出した。そうしてひとつ目の回廊を足早に抜けたところで、ふと歩調を緩めて小さく舌打ちをした。
「……なんなのだ。私は至極正当なことを言ったまでだというのに」
ぶつぶつと小声で呟いた途端、先ほどの花のいまにも泣き出しそうな表情が脳裏に再現されて、文若は忌々しげに眉をひそめた。
「あのような顔をされたら、まるで私が一方的に虐めているようではないか」
ぽつりと漏らした自分の言葉に驚いた文若は、ぴたりと足を止めてまばたきを何度も繰り返した。
「……不愉快だ。なぜ私の方が、あの者に対して罪悪感を抱かねばならん」
呟いた文若ははっと我に返ると、ちらちらと辺りを見回してから、再び何事もなかったように歩き出した。その足取りは先ほどよりも遥かに早く、あっという間に中書省の執務室に辿り着いた。
それから文若は持参した竹簡を出てきた副官に押し付けるように手渡すと、彼が目を白黒させているのを気にもせず早口で書き直しを指示すると、相手の返事も待たずにきびすを返して来た道を戻り始めた。
そうして最後の回廊が視界に入った途端、なぜか足を止めた文若は、ほんの少し躊躇うように視線を泳がせてから回廊とは別の廊下へと足を速めた。
しばらく行くと突き当たりの扉が見えてきた。それを躊躇わずに開けた文若はそのまま中に入ると、人の気配に気がついて振り返り目を見張る馴染みの料理番に仏頂面のまま声をかけた。
「すまないが、いつものを頼む」
「これは文若様! お使いの方を寄越してくだされば、すぐにお持ちしましたのに。なにか、お急ぎになる理由でもございましたか?」
「いや。たまたま他に所用があって、ちょうど通りかかったのでな」
「なるほど、そうでございましたか」
深く追求せずにうなずいた料理番の様子に、文若は内心ほっと息をついた。しかし料理番が手早く用意した茶碗がひとつであることに気づき、こほんと小さく咳払いをしてみせた。
「あ、その……茶碗は、二つ用意してくれ」
「お二つ、でございますか?」
「ああ」
小さく文若がうなずくと、料理番は一瞬きょとんとした表情を浮かべたが、すぐに心得たようににこりと微笑んでうなずいてみせた。
「それでしたら、茶葉も少々多めにご用意しましょう。お話が弾んで、お代わりをお飲みになるかもしれませぬゆえ」
「あ、ああ。頼む」
ぼそりと言って視線を逸らす文若の態度を敢えて無視しているのか、料理番は詮索することもなく黙々と茶の用意を済ませると、胡桃を細かく砕いて蜂蜜と混ぜて焼いた小さな菓子の乗った皿を盆に乗せ、茶器と一緒に持って運ぼうとしたが、それを文若は慌てて止めた。
「いや、それは私が自分で持っていく」
「え? ですが文若様にそのようなことを…」
怪訝そうに首を傾げる料理番の男と視線を合わせないよう、視線をわずかに逸らしたまま文若は一歩前に進んだ。
「かまわん。これから晩の膳の仕度もあろう。これ以上お前の手を煩わせると、余計な仕事を増やしてしまうことになるのでな」
「なに、かまいません。お部屋にお運びする時間くらいなんてことはありませんよ」
「いや、どうせここまで足を運んだのだ。私が自分で持って帰るほうが、遥かに効率的で理にかなっている」
言いながらわざと苛立ったように素早く盆を取り上げた文若は、素早くきびすを返して厨房から足早に立ち去った。その文若の背を、料理番はしばらくぽかんとした顔で見送っていたが、やがてしたり顔を浮かべ小さく何度もうなずいてから再び自分の仕事を再開した。