「……え? …………ええっっ?」
孟徳の言った意味が瞬時には理解できなかった花は、文若にすがりついたままぽかんとした表情を浮かべていた。が、やがて目をまんまるに見開いたかと思うと、文若の身体をドンッと押しのけて孟徳の前に忙しげに這って進んだ。
「あ、あの、娘って、それ……え、あ、あれっ?」
混乱する花の態度に孟徳はにこにこと笑ったまま、文机に肘をつくと頬を手の甲で支えた。
「うん、君を曹孟徳の養女にしたいなと思ってね。そうすれば君には、最高の後ろ盾が出来るだろう?」
言って孟徳は文若に視線を移すと、彼を見つめたまま意味ありげな笑みを口元に浮かべた。
「俺の娘になったら、そりゃあもうお得なことばかりだよ。どこに行くのも自由だし、なにをしたって咎める者はまずいない。そしてなにより、結婚相手も選び放題だ。どんな高官だって地方領主だって文句は言わず、喜んで君を迎えるだろう。そうだな、たとえば……数多の名士高官を排出し、漢全土にその名を轟かせる名族、荀家なんかも…ね」
孟徳の言葉に何より反応したのは文若だった。彼はしばらく惚けたように孟徳を見つめていたが、その瞳に光が戻ると常よりもなお目を細め、やがて深く長い息を吐き出して視線を落とし口を開いた。
「……なるほど。すべてお見通しだった、という訳ですか」
文若のため息に孟徳はくっと喉の奥を鳴らし、ひらひらと右手を動かしながら笑んでみせた。
「お前が恐れたのは、花ちゃんが荀家に染まらないことじゃない。荀家のうるさい年寄り共の野次が、彼女の重荷になるのを恐れたんだろう?」
孟徳の口から出た思いもよらぬ事実に、花は目を丸くすると文若の方を振り返った。
「文若さん……それって……」
「……お前は、まだこの世界のしきたりをほとんど知らない。そんなお前を格式やしきたりに縛られた一族の中に、無防備のまま放り込むのは忍びなかった。そのことで、私がとやかく言われるのは一向にかまわん。だが、お前自身にその悪意が向けられるのではないかと思うと……」
「文若さん……」
文若が口をつぐむと、孟徳は身を乗り出すようにして助け舟を出した。
「花ちゃんはよく知らないと思うから、少し教えてあげよう。文若の実家である荀家っていうのは、これまでに高官や地方領主、文化人なんかを多く輩出している名家なんだよ。そういった連中は漢の国中に散らばって、それぞれが各拠点で力を持って一族を支えている。その中でも文若は、時の丞相である俺、曹孟徳に仕えているわけだから、一族からしたらちょっとした出世頭の一人ってわけ。その文若が嫁を取るとなったら、当然それなりの相手であることが条件になるわけなんだけど……俺の言ってる意味、わかる?」
「はい。なんとなく……わかります」
こくりとうなずいてから、花は改めて文若を見つめた。偉くて頭が良い人だというのは知っていたし、きっとそれなりのお家の出身なんだろうなというのもぼんやりと思っていたが、まさかそこまですごい人だとは思っていなかった。
けれどそうであるならば花のような、どこから来たかわからない娘と結婚したいなどと言っても、恐らくそう簡単には許してもらえないだろう。だからこそ文若は少しでもその可能性を上げるために、文字やしきたり、礼儀作法をきちんと学べと何度も言っていたのだ。
「文若さん……私、何も知らなくて。でも、いつか文若さんのお嫁さんになれたらいいのになんて、簡単に考えちゃってて……ごめんなさい」
「お前が謝ることはない。そうするために、私が勝手にしていただけのことだ」
言って花の頭をそっと撫でて目を細める文若を、孟徳は呆れたように見ながらため息をついた。
「でもな文若、お前のその計画じゃあ、花ちゃんはいつになったら嫁に行けるんだよ。読み書きはともかく、しきたりや各家の作法なんかそれこそ数えきれないくらいあるんだぞ。それにそもそも、花ちゃんはこの国の者とは根本的な考え方が違う。それをすべて変えて馴染ませようなんて、どだい無理な話だと思うがな」
「わかっています……すべてを完璧になどとは思っていません。ただ少しでも、花が辛い思いをせずにすむようにと……」
「だーかーら! そこがお前の悪いところだって言ってるんだ。なんでも正面から当たろうとするな、少しは絡め手から攻めてみろって」
文若を指で指した孟徳は立ち上がり、ゆっくり腕を組むと背筋を伸ばした。