「明かりをお持ち致しました、のですが……」
遠慮がちな声を聞いた文若は、そこでいつの間にか辺りが暗くなっていたことに気がついた。どうやって私室まで戻ったのかも、どれくらい時間が経ったのかも、よく覚えてはいない。
椅子に腰掛けたまま文若はゆるゆると首を動かし、入り口で背後から薄明かりを受ける小者に目を向けた。
「……いま、何刻だ?」
「先ほど、黄昏を告げる鐘が鳴っておりましたが……」
「……そうか」
「あの……夕餉の膳はいつ頃お持ちいたしましょう?」
「いらん」
「ですが、文若様。謁見の間からお戻りになってより、何も召し上がっておられないではないですか」
心配そうに身を乗り出す小者を手で制すると、文若は微かに笑んでみせた。
「案ずるな。なにかあれば声をかける……下がってくれ」
そう言ってふっと視線を外し、暗い室内をまたぼんやり見つめる文若の姿に小者は眉をひそめたが、これ以上留まっていても何ができるわけではない。そう考えた小者は恭しく一礼すると、ちらちらと背後を振り返りながら文若の私室を後にした。
文若は頭の中を整理しようと,先ほどから何度も謁見の間でのやり取りを思い出していた。だがすぐにそれは花の驚いた表情と自分の名を呼ぶ切なげな声に埋め尽くされて、まるでそれ以上のことを考えるのを心が拒否してしまっているように思えた。
「……花」
先ほどから何度も愛しい少女の名を呟いているが、それに答える明るい声はどこからも聞こえてこない。
その度に何度目かわからないほど唇を噛み締めている所為か、塞がった傷口はまたすぐに血を流してずきずきと痛んだ。いっそこのまま闇に解けて、跡形もなく消えてしまえたら楽だろうに……と、働かぬ頭の片隅で何度も思うのだが、そうすると今度は花の必死な表情が脳裏を何度もよぎり、文若を救い上げてしまう。
『死んでしまったら何もできませんっ! 死んだら駄目です、文若さんっ!』
懸命な彼女の声が耳の奥に張り付いて、何度も何度も文若の心を闇から引きずり出してしまうのだ。
ふっと口元に笑みを浮かべた文若は、天井を仰いで目を閉じた。
「お前は私の元から消えてしまうというのに、私が消えることを許してはくれんのか。……ひどい娘だ」
くくっと自重気味に笑ってから、文若はひたと目を開けた。そしてまた唇をかんで拳をぐっと握りしめると、文机に向かって力まかせに振り下ろした。がつん!っと大きな音を立てた拳に激痛が走ったが、文若は虚空を睨みつけたまま肩を震わせ叫んだ。
「誰がひどいというのだ……一番ひどいのはお前ではないか、荀文若っ!」
ここに至るまで、文若と花には十分時間があった。彼女が何も望まず、ただ文若の傍らにいて笑っていてくれることに満足して、なにもせずに時を過ごしていたのは他ならぬ自分だ。
真に彼女のことを考えているならば、この世界にたったひとりで迷い込み、ただ文若だけを頼みとしている少女にしかるべき立場を確保してやるのが、本当の意味での「想いを伝える」ということではなかったのか。
「この世界にまだ慣れていないから」「この世界のことをよく知らないから」と言い訳をして、いつかいつかと結論を先延ばしにしていたのは、誰でもない文若自身だ。 そんな自分が、ひたすら一途に想ってくれていた花をひどいと責めることなどできるはずがない。彼女の身を案じ、彼女の「拠り所」を与えようとしている孟徳を非難する資格などない。
微かに震える拳をゆっくりと開き、赤くなった手の甲を見下ろしながら文若は、視線を落として息を吐いた。
「彼女の幸せを願うならば……私は……」
このままこの苦しみを総て受け入れ、生きるべきなのかもしれない。
「――行動する前にあきらめるのか?」
びくり、と肩を震わせて振り返った文若は、部屋の入り口に寄りかかって腕を組む大柄の影に目を細めた。
「元譲殿……」
声をかけられた男はちらと文若を睨んでから、ゆっくりと腕組みを解いて背を向けた。
「あの娘は、泣いて暴れて抵抗していた。孟徳につかみかかって、お前が好きだと叫んでいたぞ。まるで子供のように、馬鹿みたいに何度も何度もな」
「……」
驚いたように目を見張った文若は、慌てて立ち上がると元譲の方へ向き直った。
「可哀想なものだ。あれだけ想っている相手は、暗い部屋の中でいじけてうずくまっているだけで、何もしようとせんのだから。主の命には背けぬと、自分に都合のよい言い訳ばかり並べ立ててな」
「っ……!」
ガタッ!と文机を蹴飛ばして近づいてくる文若の気配を感じた元譲は、それだけ言い残すと顔を背けて歩き出した。
「お待ちください元譲殿っ! 私はっ!」
回廊に飛び出した文若は、遠ざかっていく元譲の背に向かって叫んだ。しかし元譲は文若の叫び声などまるで聞こえぬとばかりに無視したまま、足早に遠ざかり、曲がり角の影に姿を消してしまった。
また独り残された文若は、視線を床に落としてしばらく固まっていた。が、やがて拳を握りしめると顔を上げ、元譲が消えていった先を目指して走り出した。