心の置き場所

(5)

素早くきびすを返し、こちらを見ようともせずに背を向け立ち去っていく文若を、花はただ見送るしか出来なかった。やがて謁見の間の扉が閉まる音と、孟徳がゆっくりため息をつく気配で意識を取り戻した花は、孟徳を睨むとその腕を力一杯掴んだ。

「ばかっ、もうとくさんのばかっ! なんでっ! どうしてっ!?」

「は、花ちゃん!? い、痛いよっ!」

「ばかばかばかっ! どうしてですか! なんで文若さんに……う、ふぇっ……ふえええっっ…う、あ……あーん、ふああーーん!」

「い、いたたっ…ちょ、花ちゃん泣かないでくれ。いや、それは無理か……って、こ、困ったな。げ、元譲っ! いるんだろ!」

腕といわず腹といわず、わんわん泣きじゃくる花に身体中をぽかぽかと叩かれた孟徳は、ついに情けない悲鳴を上げると、柱の影にいるのであろう従兄弟に助けを求めた。すると案の定、寡黙な隻眼の偉丈夫が足音も立てずに姿を現すと、苦々しい表情をしたまま二人の方へ近づいてきた。

「やりすぎだ、孟徳。文若の奴、まるで幽鬼のような有様だったぞ」

「そ、それはいいから! ちょっと花ちゃんを抑えててくれ! あいてっ!」

花に頭を殴られて呻く孟徳に呆れたように肩をすくめてから、元譲は腕を伸ばして花の脇の下に差し込むと、華奢な身体をひょいっと持ち上げてしまった。

「怒る気持ちはわからんでもない。だが、こいつは一応この国の丞相なんでな。いつまでも殴らせておくわけにはいかん」

「ふぇえええーーん! は、はなしてくらさい、げんじょうさぁーん! う、うえっ……うぇぇぇーーーんっ!」

「ああ、もう泣くな。泣いたところで事態は変わらんぞ」

「うぇっ…ひっく…ら、らって……もうとくさ、ひど……う、うぇぇぇっっ…」

元譲に抱え上げられたままじたばたと足を動かし、しゃくりあげてぼろぼろ涙を流す花の前で、孟徳は解放された安堵の息を吐いてから、所在なげに頭を掻いた。

「まぁ、わかってはいたけどね。それにしたってえらい嫌われようだなぁ……ちょっと落ち込むよ」

「あれだけのことをしたんだ。仕方あるまい」

「少しは庇えよ、まったく」

元譲の突き放したような言葉に肩をすくめた孟徳は、困ったような笑みを浮かべてから手を伸ばすと、自分の袖で花のぐしゃぐしゃな顔をそっと吹き始めた。

「あーあ、可愛い顔が台無しだ。落ち着いて考えれば、そんなに悪い話じゃないんだけどなぁ」

「う……えっ……ひっく……」

「ごめんね、こんなに泣かせてしまって。でもね花ちゃん、よく聞いて? 君は確かに我が国の軍師として召し抱えられてはいるけれど、実際のところ後ろ盾も有力なコネもない、いわば孤立無援な状況にあるんだ。何かあったとき、君を助けてくれる者はいない。君に対して責任を取れる人間がいない。――それって、実はとても危険なんだということはわかるかい?」

「………」

ぐすりと鼻をすすり上げると、孟徳は苦笑しながらも袖で丁寧に鼻を拭いてくれた。柔らかい絹の感触に罪悪感がちらとよぎったが、すぐに先ほどの孟徳の言動を思い出した花は、遠慮なく音を立てて鼻をかんだ。

「だが俺のところへくれば、君は最強の後ろ盾を得ることになる。俺の名前を背負うことで、君が厄介事に巻き込まれる確率がうんと少なくなる。俺の威光を恐れて、君に手出しをする者はいなくなるんだ。ね? 思うほど悪い提案じゃないだろう?」

鼻水をたっぷり吸い込んだ己の袖を持ち上げ「あらら……容赦なくつけてくれたなぁ」と笑う孟徳を上目遣いに見つめながら、花は歪んだ唇を震わせた。

「れも……わらひ、ぶんひゃくひゃんのこと……す、すきなんれす、よ? ぶんじゃくひゃんらって……」

「そんなこと知ってるよ。でもあいつは、今のいままで手を打とうとはしなかった。もっと早く君を正式な妻にしていれば、君は『荀家の嫁』という後ろ盾を得ていただろう。そうなっていれば俺だって、こんな手段は使わなかったさ。だが文若は、今もってなんの手段もとろうとしない。俺にあんな理不尽な命令をされても、唯々諾々として受け入れてしまった……つまりは、その程度の感情だったってことなんじゃないかな」

言って見定めるように目を細めた孟徳だったが、花はひるんだ様子もなく逆に孟徳を睨みつけた。

「ひどい……孟徳さんに命令だって言われたら、文若さんが逆らえないってことわかってるくせにっ! あんな言い方したら、文若さんはなにも言えるわけないじゃないですか!」

叫んで口をへの字に曲げる花の大きな瞳から、またぼろぼろと涙がこぼれ始めた。元譲から解放された花は、一瞬ふらりと身体を傾げさせたがすぐに体制を立て直し、孟徳を糾弾する目で見つめたが、その顔はすぐにぐしゃぐしゃになると天を仰いで泣き始めた。

「ああっ! もうっ花ちゃん、そんなに泣いたら、明日顔がぱんぱんに腫れちゃうじゃないか!」

さすがの孟徳も慌てて、花の身体をぎゅっと抱き寄せた。そして離れようと抵抗しながら泣きじゃくる花の頭を撫でさすり、何度も「ごめん、ごめん」と謝り続けた。

やがて泣き声が小さくなっても孟徳は愛おしむように花の頭を優しく撫で続け、ふっと口元に微笑を浮かべた。

「――本当に、君はすごいな。何があっても揺るがず、いつでも自分の気持ちに正直だ」

ぎゅっと着物の襟を掴んでくる花の様子に目を細めた孟徳は、ふうと一息吐いて言葉を続けた。

「今さらこんなことを言っても信じられないかもしれないけれど……俺に任せてくれないかな? 絶対に悪いようにはしない。花ちゃんがまた、元気に笑えるようにしてあげるって約束するよ」

唇をかみしめてうつむいていた花は、やがてゆっくり顔を上げると孟徳を見つめた。そして首を動かすと、今度は背後の元譲に伺うような視線を向けた。

すると元譲は一瞬困惑したような表情を浮かべたが、すぐに小さく息を吐いてわずかにうなずいてみせた。

「疑うのも無理はないが……こいつは、お前には嘘をつかん男だっただろう? もう一度だけ信じてみてはどうだ? もしこれが甘言だったなら、その時はこの俺がたっぷり仕置きしてやろう」

「おい、元譲。なんでそんなに嬉しそうなんだ」

むうっと唇を尖らす孟徳に、口の端を持ち上げて笑ってみせる元譲を見ていた花は、やがて赤くなった目をこすって小さくうなずいた。