心の置き場所

(4)

「きゃっ!?」

たたらを踏んでよろめく花の様子に文若が反射的に手を伸ばしたが、それよりも先に孟徳は彼女の身体を抱え込み背を支えながら小さく笑った。

「おっと。大丈夫?」

「だっ、大丈夫です……って、孟徳さんが急に引っ張るからじゃないですか」

「あはは、そうだね。ごめんごめん」

からからと笑ってさりげなく花の背中を撫でる孟徳を、文若は苦々しげな表情でじっと睨んだ。すると孟徳は、さもいま気がついたとばかりに大仰に肩をすくめると、花の腰から手を離した。しかし彼女の肩に乗せた手はそのままだったので、文若は片眉をぴくりと振るわせたかと思うと一歩前に歩を進めて口を開きかけたが、急に表情を変えた孟徳に気圧されたように息を飲んだ。

「控えよ、文若。――お前に申し伝えることがある」

冷徹な丞相の仮面を付けた孟徳の声に、文若はきゅっと下唇を噛んだが、すぐに頭を軽くうつむけて後ろに下がると、再び揖礼をして次の言葉を待った。

すると孟徳はちらと花を見おろし、不安げな少女に軽く笑んでみせてから、すっと視線を文若に向け為政者の表情を浮かべた。

「五日の後、沛郡から客が来る。俺の遠縁に当たる娘だ」

「はい……」

その接待をせよというのかと頭の中で先に続く言葉を想像したが、実際に孟徳の口から出たのは文若が想像すらしていなかったことだった。

「なかなかの器量良しらしいし、歳の頃もちょうどいい。その娘、お前にくれてやる」

「…………は?」

一瞬思考が停止した文若は、反射的に顔を上げるとぽかんと口を開けたまま孟徳をまじまじと見つめた。すると孟徳は軽く肩をすくめ、固まっている花の肩をポンッと叩いてからまた口を開いた。

「聞こえなかったのか、文若? 俺はその娘を娶れと言ったんだ」

「…………申し訳ございません。私には、丞相のおっしゃるお言葉の意味がわかりませんが…」

動揺を精一杯抑えながら、文若はなんとか言葉を吐き出した。しかし孟徳はなおも真顔のままで、呆れたように目を細めただけだ。

「意味も何もない。伝えた通りのまま、その娘を妻とせよ。荀文若、これは俺の命令だ」

「も、もうと、く、さ……な……んで……?」

それまで人形のように固まっていた花は、ようやく息を吹き返したのか孟徳を恐る恐る見上げた。だが血の気の引いた顔は真っ青で、無意識に孟徳にすがる手は小刻みに震えている。

そんな花の様子に、孟徳はほんの少しだけ表情を曇らせたが、すぐに軽い笑みを浮かべると上体を少しだけ屈めて、花の頭を優しく撫でた。

「驚かせてごめん。でも大丈夫だよ、君のことは俺がきちんと面倒見るから。だからさ……花ちゃん、俺のところへおいで?」

「じ……丞相っ! あなたはっ!」

驚いて息を飲む花を前にして、文若は思わず叫ぶと二人の元へ駆け寄ろうとした。しかし孟徳は上座から文若を冷ややかに見つめたまま、大きくはないが人を威圧する声を張り上げた。

「控えよと言っている。それとも、丞相であるこの俺の命が聞けぬと申すか?」

「く……っ」

孟徳の言葉に足を止めた文若は、ぎりっ!と唇を噛み締めた。口の中に微かな血の匂いが広がったが、唇の痛みなどほとんど感じなかった。

やがて能面のような表情のままゆっくり頭を垂れると、一歩一歩背後に下がり、深々と腰を折った。

「……承り、ました。謹んで……お受けいたし、ます…」

「ぶんじゃ、く……さん」

花の震える声が耳に届いたが、文若は応えることは出来ず、ただ肩を震わせるしかなかった。

「わかればいい。詳細は追って連絡させる。……下がれ」

「……はい」

孟徳の声はまるで現世のものではないように、遥か遠くから聞こえてくるような気がした。ただその場にいるのが辛くて、文若は顔を上げようともせずに深く頭を垂れたまま、反射的に返事をしていた。