心の置き場所

(3)

「孟徳さんに執務室に呼ばれるのって、なんだか久しぶりな気がします」

「……」

隣を歩く花の言葉に、文若はただ無言だった。実際のところ、孟徳は文若の顔を見るたびに「花ちゃんとゆっくり話をさせろ」とごねてくるのだが、文若はそれをほとんど無視し彼女には伝えていないからだ。

もちろん仕事関係での昇殿要求ならばそんなことは絶対にしないが、孟徳のそれは大概の場合「だって可愛い子と話すと元気になるじゃないか。いろいろな意味でさぁ」であったから、文若は苦虫を噛み潰したような顔を更にしかめ、早口で用件だけを述べると、孟徳が余計なことを言ってくる前にさっさと退出してしまうというのが常になっていた。

「でも、他のところではちょくちょく会うから、会うこと自体は久しぶりじゃないですけどね」

「! ちょくちょく会っているだと?」

驚いて振り返る文若の横で、花は軽くうなずくとにこりと微笑んでみせた。

「はい、よく会いますよ。さすがにお部屋には来なくなりましたけど、食堂とか中庭とか…あ、文若さんが出て行ったすぐ後で執務室に来たこともあったかな。すれ違っては困るから、文若さんが戻るまでここで待たせてもらうねって」

「でも結局、文若さんが戻ってくる前にいつも帰ってしまうんですけど……」と続ける花から視線を逸らした文若は、眉間にしわを寄せて深いため息をついた。

「……花。今度またそのようなことがあったら、その時はすぐ私に報告しろ。いいな?」

「え? 文若さん、知らなかったんですか? おかしいなぁ? 孟徳さん、あとで文若さんに話しておくから君からは言わなくていいよって、いつも言っていたのに」

「……まったく、油断も隙もない」

ぼそりと聞き取れないほど小さな声でつぶやく文若に、花は怪訝そうに首を傾げ「文若さん?」と声をかけた。文若は「なんでもない」と答えると、花の手をそっと持ち上げて握りしめた。

「文……若さん?」

声をかけても文若は何か言う気配はなくて、ただ握る手に少しだけ力がこもった気がした。やがて花は握られた手から視線を文若の肩に移し、ほんの少しだけ赤くなっている耳たぶを目にして小さく笑うと、文若の手をきゅっと握り返した。

「お召しにより、荀文若、参上いたしました」

揖礼の形をとって頭を下げる文若の隣で花は一瞬戸惑ったあと、孟徳をちらと見上げてぺこりと頭を下げた。その様子がなんとも愛らしくて、孟徳は口元に笑みを浮かべて椅子から立ち上がった。

「そんなにかしこまらないで、いつも通りでいいよ。文若、お前がやけに仰々しい挨拶をするから、ほら、花ちゃんが困ってるじゃないか」

「臣下が礼を尽くすのは当たり前のことです。それに彼女にもこういった礼儀などを、少しずつ学ばせねばなりませんので」

言って文若がちらと隣に視線を向けると、花はまばたきを繰り返してから慌てて正面に向き直り、文若の真似をして両手を組んで顔の前に持ち上げた。

「え、えと…っ。じ、丞相閣下には、ほっ、本日もご健勝のご様子にて、心よりお慶び申し上げます…そ、それからっ……」

「……なに、それ?」

口をぱくぱくさせて口上を述べる花をぽかんとした表情で観察していた孟徳だったが、やがて身体を前に折り曲げ腹を抱えて笑い出した。

「あっはっはっは!! は、はなちゃ…っ、や、やめてっ……お、おれっ、わっ、わらい…しんじゃ、う、よっ!」

「ええっ? だっ、だってこういう時にはこう言うものだって……」

孟徳の笑い声に驚いた花は慌てて顔を上げ、渋い表情で額を押さえる文若と、床に突っ伏す勢いで笑う孟徳を交互に見比べて声を上げた。

「ひっ……ひーっ……く、くくっ……」

「もっ、孟徳さんってば……もうっ! そんなに笑わなくてもいいじゃないですかっ!」

いつまでも肩をひくひくと痙攣させて笑う孟徳の態度に、さすがに花も不快になったのだろう。むっと顔をしかめると、畏まっていた姿勢を崩してすたすたと孟徳の前に歩み寄った。そして口を尖らせたまま腰に手を当て、うずくまったままの孟徳の顔を覗き込もうとわずかに上体を屈めた。

すると、それを待っていたように孟徳は素早く顔を上げ、花の腰に手を伸ばすと手首を掴んでぐいと引っ張った。