心の置き場所

(2)

軽くうなずき、きびすを返して歩き去っていく文若をしばらく見送っていた元譲だったが、不意になにか思い出したのか文若を早足で追いかけると、その背に声をかけた。

「おい、文若!」

すると文若は立ち止まり、半身で振り返って怪訝そうに眉をひそめた。

「なにか?」

「なに、用事というほどでもないのだが…」

言いながら文若の方へ歩み寄った元譲は、彼を見おろしたままゆっくりと両腕を胸の前で組んだ。

「つい先ほど、お前の甥の公達に会ってな。愚痴というのではないが、あれこれ話を聞かされた」

「……」

途端に渋い表情を浮かべる文若の態度に、元譲は予想通りとばかりに口元に苦笑いを浮かべてみせた。

「その顔から察するに、内容はわかっているようだな」

「まぁ、おおよそは……夏候将軍にまで話しておるとは思いませんでしたが。くだらぬ身内の内輪話をお聞かせしたようで申し訳ございません。公達には後ほど、きつく申しておきますので」

視線を伏せて深々と頭を下げる文若を見おろしていた元譲は、彼が顔を上げるのを待って己の顎髭を左手で撫でた。

「僭越なことかもしれんが…お前、花のことを荀家の者達に伝えておらんのか?」

すると文若はしばらく視線を伏せていたが、やがて顔を上げると元譲を見上げて口を開いた。

「今はまだ時期尚早かと。彼女がいますべきことは、この国や宮中での仕事に慣れることで、私もそれを最優先すべきだと思っております。ですからいましばらくは、他のくだらぬ雑事に気を使わせないようにしてやりたいのです」

「婚姻話はくだらぬ雑事ではない、と思うがな」

軽く頭を掻いた元譲は、文若をちらと睨んでため息をついた。

「まぁ…これはお前達二人の問題であるから、俺がとやかく口出しをする筋合いではないがな。だがな、公達の心配もわからなくはないぞ。己より歳若いとはいえ、時の丞相の右腕とも言われる叔父がいつまでも独り身というのでは、甥や実家の者達が案じるのも無理はなかろう。誰ぞ年頃で分相応の娘がいたらぜひにも妻合せてはくれまいかと、頼み込んでくるのも当然だ」

「……誠に申し訳ありません」

再び頭を垂れる文若を見つめながら顎髭を撫でていた元譲だったが、小さく息を吐くと口を開いた。

「とりあえず、どこか良い娘の噂を聞いたら話をしてみようと適当に誤摩化しておいた。だが俺に話が廻ってくるくらいだ、そのうち主立った将すべてに話が持ちかけられるのは時間の問題だぞ。そうなる前に、花のことをきちんと公にするべきだと俺は思うがな」

「無論です。それは、いずれ必ず……」

「いずれ、か……まぁ、いい」

苦笑いを浮かべ肩をすくめる元譲の前で、文若はきゅっと下唇を噛んだ。そして再び頭を垂れてから元譲にくるりと背を向け、すたすたと足早に歩き去ってしまった。

「……まさかに実家に伝えるのが恥ずかしい、ということでもないだろうに」

どんどん小さくなる文若の背を目を細めて見つめながら、元譲はぽつりとつぶやいた。すると急に背後から肩をポンッと叩かれ、ぎょっとして隻眼を見開いた。

「そんなことを恥ずかしがるような愁傷な男じゃないと思うがなぁ」

「もっ、孟徳!? お前、いつからっ!?」

唖然とする元譲を見上げた曹孟徳は、にっと口元に意地の悪い笑みを浮かべて腕を組んだ。

「ずっと居たよ。文若が執務室を出たのを見たから、それからここまで後を付けてきた」

「後をって…おまえ……」

つぶやいてから元譲は、目を細めて微笑む孟徳を見つめ、やがて深いため息を漏らした。

「見つけられんはずだ。まさか探している相手が後から付いてきているなぞ、想像もせんからな」

「そういうところが、文若のつめの甘さだよ。一方しか見ていないから変化に弱く、結果として自分で自分を追いつめることになる」

腕を組んだまま得意げに鼻を鳴らす孟徳を軽く睨み、元譲は肩をすくめた。

「呆れた奴だ。自分を捜しにきた部下の後を,逆に付け回す上官など普通はおらん。そんな馬鹿げたことを楽しむなぞお前くらいなものなのだから、文若が気付かずとも仕方あるまい」

「だったらなおさら文若が悪いな。俺に仕えると決めたのは、他ならぬ奴自身だ。その段階で俺がどんな男かくらい当然把握して、それに上手く合わせていくべきだろう? 違うか?」

「本当に口の減らん奴だな。なんだか文若が哀れになってきたわ」

「はははっ、哀れなものか。花ちゃんみたいな可愛い子に想われてるんだぞ、あいつは。少しくらい俺の憂さ晴らしに付き合っても罰は当たらん」

「…………それか、文若を苛める原因は」

額を押さえて眉をひそめる元譲の前で、孟徳は腕を組んだまま口を尖らせている。しかしすぐに表情を緩めると同時に腕組みを解くと、元譲をちらと見上げて口を開いた。

「ところで元譲、先ほどの話だが……」

「なんだ?」

「俺も少し前に妙才から、どこぞに良い年頃の娘はおらぬかと聞かれたことがあるんだ。そのときは『なんだ妾が欲しいのか? ならば俺のを一人二人分けてやろう』とからかってやったが……もしかしたら、あれも公達から依頼された話かもしれないぞ」

「妙才にまで話がいっているのか……というか、妙才をからかうのはやめろ。あいつは真面目なんだから」

「いやぁ、必死に否定するものだから面白くてつい、な」

「孟徳……」

がっくりと肩を落とす元譲を見ながら楽しげに声を立てて笑った孟徳は、やがて己の顎を拳でゆっくりと撫でた。

「しかしなぁ、元譲。お前も含め、どいつもこいつも俺の部下のわりには頭が固すぎるぞ」

「お前が柔軟すぎた結果、そうならざるを得なかっただけだろうが」

ため息をついて孟徳を睨むと、彼はすっと視線を逸らし頭の後ろで腕を組んだ。そして明後日の方を向いたまま曖昧な笑みを浮かべた。

「ま…まぁこの際、お前と妙才は置いておくとしよう。で、問題は文若だな。あいつが困るだけなら一向にかまわんどころかむしろ楽しいが、それで花ちゃんが悲しむのは可哀想だ。……よし、ここはひとつ俺がひと肌脱いでやるか。花ちゃんのために」

「……何をする気か知らんが、お前は手を出さん方があの二人の為ではないかと、俺は思うんだが」

ぼそりと元譲が本音を漏らしたが、それを意識的に無視した孟徳は腕を下ろすと、そのまま腰に当ててにやりと笑った。

「ははっ、まぁ任せておけって」