心の置き場所

(1)

ふと空を見上げてみる。視線の先に広がるのは、曇りひとつない青だ。それが地平線の向こうまで果てしなく続き、遥か彼方で黄土色の大地と結ばれている。

その景色は当然ながら、今日初めて目にしたわけではない。にもかかわらず己の口から感嘆にも似た軽い吐息が漏れたことに気づいて荀文若は、もとより切れ長の目を更に細め足を速めた。

景色などに見とれている暇はないはずだ。現にこうして両手に抱えた書簡は決済済みのごく一部で、執務室に残してきた物は軽く倍以上ある。加えていまだ手つかずの書類も山積みになっているのだから、こんなところで春の景色を愛でている時間などまったくない。

「私ですらこの有り様だというのに、まったくあの方は…」

そうつぶやいて文若は、今日何度目になるかわからないため息をついた。早く執務室に戻って残りを片付けたいのだが、肝心の最終確認者がどこぞに雲隠れしてしまっているからだ。先ほどから心当たりの場所をしらみつぶしにしているのだが、こういう方面でも狡猾な才能を発揮しているのか、姿どころか情報さえ掴めない。

「いっそ今度見つけたら、宮殿の一番太い柱に縄で縛り付けておくという手もあるな」

苛立ちが頂点に達したのか、文若が端正な顔立ちをことさら無表情にして剣呑なつぶやきを漏らしたちょうどその時に、回廊の向こうから馴染みのある偉丈夫がひょっこり姿を見せた。それを視界に捉えた文若は着物の裾を軽く持ち上げ、半ば走るようにして大柄な武人の元へ駆け寄った。

「夏候将軍! ちょうど良いところでお会いしました」

「ん?」

足を止めた偉丈夫=夏候元譲は首を回して文若を見ると、すぐに事情を察したらしく両手を腰に当てた。

「どうした……と、言いたいところだが。……また逃げたか」

「話が早くて助かります。ですがそうおっしゃるところをみると、将軍も丞相の行方はご存じないということですな」

「ああ、今日は見ておらん」

「そうですか…」

眉間のしわを指で摘むように額に手を当てる文若の前で、元譲は顎を右手でゆっくりと撫でながら隻眼を閉じた。

「そういえば、一昨日新しい妾が入ったそうじゃないか。そこにしけこんでおるのではないか?」

「そちらならば真っ先に訪ねました。初夜を過ごし退出されて以降、お姿を見ていないそうです。たった一夜で新妻を顧みなくなるとはなんと冷たい方かと逆に泣きつかれ、退散するのに苦労しましたよ」

額に手を添えたまま苦々しげにつぶやく文若に、元譲は小さく唸るとゆっくりと目を開けた。

「そうか……では書物庫は探してみたか? あいつは時々あそこに引き蘢って、書物を読みあさっていることがあるぞ」

「確かに、以前十日ほど籠られた時はありました。今度こそ孫子の注釈を完成させるのだと宣言されて、他の仕事を全部放り出してしまわれたのだから、まったくもって迷惑な話です。あの時も、どうしたら誘い出せるか頭を悩ませたものでしたが」

「そうだった、そうだった。結局、書物庫の扉の前で宴会をしてみたら、のこのこと出てきおったが…」

当時のことを思い出してくっくと笑う元譲を恨めしげな表情で見つめた文若は、深いため息をついてゆるりと手を降ろした。

「執務室はもとより、気に入りの中庭や離宮、厨房、果ては女官達の休憩所まで行ってみましたが、誰も丞相のお姿を見ておりません」

「まさに雲隠れ、というところか。まったく、いつもながら逃げ足の速いことだ」

「感心なさるところではないでしょう。ならば町へと逃亡を図ったやもしれぬと門兵たちに問うてみましたが、こちらも手応えはなし。とは言ってもあのお方のことですから、どのような悪知恵や抜け道を用意しているかわかりませんので、そのことも申し伝え、発見せし時は可及的速やかに宮殿へお連れするよう命じておきました」

流れるように告げる文若を見ながら元譲は軽く頬を掻くと、小さくため息をついて肩をすくめた。

「いつもすまんな。手間をかける」

「まったくです、いい加減なんとかしていただきたい…と、申し上げたいところだが、将軍を糾弾したところであの丞相が悔い改めるものでもないでしょう。これも私の仕事のうちと、最近では諦めるということを覚えましたよ」

「ほう、それは大した進歩ではないか。花から助言されたのか?」

大げさに驚いた元譲は、彼にしては珍しく悪戯っぽく唇の端を持ち上げて目を細め、文若の顔を覗き込んだ。そうやってなにか企んでいる時の元譲の顔は、血の繋がり故か孟徳をどこか彷彿とさせる。

しかし文若は動揺した素振りなどまったく見せず、相変わらず涼しげな表情を浮かべたままだ。

「そうですね……いささか関係あるやもしれません。破天荒な相手と付き合うには寛容にならねばこちらの身と精神が持たぬということを、彼女と接するうちに学びましたから」

「……お前、変わったな」

「どういうことです? 私はいささかも変わっておりませんが」

「いや、変わった。ほんの少し前であれば、俺や孟徳が花の話をするたびに『彼女は関係ない』と言っておったではないか。それが今では、あいつと付き合うために自分を変えたと言うようになったのだからな」

「特別に変えたわけではありません。そういう者もいるのだと、視野を広げただけです」

「だから、そういうところが変わったと言っておるんだが…まぁ、いい」

くっと小さく笑った元譲を一瞥してから文若は、これ以上彼と話をしていても収穫はないと踏んだらしい。こほんとひとつ咳払いをして場の雰囲気を変えると、恭しく一礼した。

「夏候将軍、お呼び止めして申し訳ない。それでは、私も先を急ぎますのでこれで失礼いたします」

「おう」