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いつか花が咲くから

(4)

突っ伏してわんわんと泣いていた鈴花は、不意に肩を掴まれ、びくりと震えた。涙と涎と鼻水がごちゃまぜになった赤い顔を上げると、彼女の肩に手を置いていた男の顔が微かに引きつった。

「おいおい、年頃の娘がなんてツラしてんだよ。おら、こっち向け!」

言うと腰に下げていた手ぬぐいを手に取り、逆の手で鈴花の顎をつかんだかと思うと、がしがしと彼女の顔を手ぬぐいでこすり始めた。

「うーーっ! い、いひゃいーーーーっっ!!」

「ちっとばかし我慢しろ……あー、こりゃこびりついてやがんな」

「……そりゃあゲロの中に顔突っ伏してりゃ、そうもなるわなぁ」

「まったくだ」

呆れたように笑うと永倉は、興味津々で見おろしている原田を見上げた。

「左之、水、持ってきてくれ」

「ん? あ、ああ」

うなずいて小走りに去っていく原田を見送り、永倉は鈴花に視線を向け直した。

「ま、こんなとこか。少なくとも入道よりゃあマシになったぜ」

「入道…って?」

「あ、ああ。まぁ気にすんな」

「はぁ……。あの……すみません。お、お恥ずかしいところを…」

鈴花が恥じ入ってうつむくと、永倉は手ぬぐいを床の汚物を隠すようにして上に乗せた。

「まぁ入隊早々はこうなる奴も多いからよ、気にするこたぁねェ。……って、オメーが噂の新入隊士だろ?」

「あ、はい!」

弾かれたように鈴花は背筋を伸ばすと、そのままぺこりと頭を下げた。

「申し遅れました。このたび浪士組に配属されました桜庭鈴花と申します。未熟者ではありますが、以後よろしくお引き回しのほど…」

「んなかたっくるしい挨拶はいらねェよ。俺ぁ永倉新八、さっきいたのが原田左之助だ」

「永倉先生に原田先生……よ、よろしくお願いします!」

「永倉でいいぜ。先生なんぞと呼ばれた日にゃあ、ケツがむず痒くていけねェ」

「は、はい。永倉…さん」

「『さん』なんてタマでもねェんだが…まぁいいか」

口調は伝法だが、屈託ない笑顔を見せる永倉の様子に、鈴花はほっとしたような表情を浮かべ、ぐいっと目頭の涙をこすった。着物の袖から覗いた鈴花の白い手首が、なにかにぶつけたように赤くなっているのをちらりと見た永倉は、自分の顎を右手で撫でながら眉を軽く寄せた。

「ハジメは不愛想だが、ここまではやらねェし。……ってこたぁ総司か? オメーを叩きのめしたのは」

「た、叩きのめしたなんてそんな!」

鈴花は慌ててかぶりを振ると、ほんのり熱を持っている手首をゆっくりとさすりながら俯いた。

「私の未熟を、沖田さんがご指導くださったんです。心構えの何たるかを少しばかり……厳しくお教えくださっただけで…」

「心構え、ねぇ」

呟いた後、永倉はしばらく鈴花をじっと見つめた。やがてその視線に気がついた鈴花は顔をあげ、困惑したような表情を浮かべた。

「あの……まだ、なにかついています、か?」

「いや。まぁ、確かに美女とは言い難いが……よく見りゃなかなか可愛い顔してるじゃねェか。これだけの器量がありゃ、今からだって嫁ぎ先のひとつやふたつ探すくれェそう難しくないだろうよ」

「…は?」

「その程度のアザなら、数日もすりゃきれいさっぱり消えちまうしな。ま、これも経験だと思って、許してやってくれや。総司も悪気があったんじゃねェだろうからさ」

「どういう意味です、か?」

鈴花は険しい表情を浮かべて目の前の男を睨みつけたが、永倉は悪びれた風もなく言葉を続ける。

「やめんだろ? 吐くほど総司にこてんぱんにされてびーびー泣いて、テメーの力も性根のなさも身に染みたんだろ? だったら悪いこたぁ言わねェ、これ以上怪我しねェうちに、とっとと……」

「やめませんっっ!!! 私、ぜっったいっやめませんからっっっっ!!!」

いきなり立ち上がって怒鳴る鈴花を永倉が驚いて見上げた瞬間、「新八ぃ、持ってきたぜー!」というかけ声に続いて、激しい水音が道場中に響いた。

コロコロと道場の床を転がる手桶を目で追った後、原田は全身ずぶ濡れになって呆然と立ち尽くす鈴花を見ながら照れ笑いを浮かべた。

「あ……悪ぃ。でもま、どうせ床も拭かなきゃなんなかったんだしよ、同時に顔も洗えてよかったじゃねぇか。…なぁ、新八?」

すると、とばっちりを受けて頭のてっぺんから水を滴らせながら立ち上がった永倉は、無言で原田に近づくと、彼のはだけた前衿をぐいっと掴んだ。

「左ぁ之――っっ。だ――れが、手桶に水持ってこいっつったよ、ああっ!?」

「ぐわっ、冷てぇっ! そば来んなてめっ!」

「んだとぉ! 自分でやっといて、なにぬかしやがる!」

「なんだよ、水持って来いっつったのてめぇじゃねぇか!」

「いいかこういう時ぁなぁ、飲み水ってェ相場が決まってんだよっ!」

「わかるか、んなの! だったら最初っからそう言えってんだ!」

「ちっとばかり頭働かせりゃわかるだろ! 一息つきゃあ頭も冷える。落ち着いて話も出来るってもんだろうが!」

「だったらいいじゃねぇか。頭から水ぶっかけたんだ、さぞかし冷えただろうさ!」

「だからって俺にまでかけるこたぁねェだろっ! 馬鹿か、テメーはっ!?」

「馬鹿だとぉ!? てめぇにだけは言われたくねぇなぁ、新八よぉ!」

「えっと、あの……お、お二人とも落ち着いて下さい。は、話し合えばわかるかと……」

「「ああっ!? 元はと言えば誰のせいだと思ってんだ!?」」

「はいっ! 私のせいです、申し訳ありませんっ!!」

二人に同時に睨まれて、鈴花は慌てて頭を下げた。そして頭を下げたまま、肩を小刻みに震わせる。

やがて彼女はその場にしゃがむと、怪訝そうな表情を浮かべる永倉と原田の前で、堪えきれなくなったように声を漏らして笑いだした。