夕食の後片づけを終わらせたジェイドは、キッチンの戸締まりをして廊下を歩きだした。そして階段の踊り場で、ふと廊下の窓から外に視線を移して立ち止まった。
「あれは……」
月明かりの下でベンチに腰かけ夜風に当たっていたヒュウガは、背後から近づいてくる気配に気がつき目を細めた。
「お前が、こんな時間に外をうろつくとは珍しいな」
「君はいつも、こんな時間にここにいるのかい?」
言ってジェイドはベンチの前に回り込むと、ヒュウガの隣に腰かけてから夜空を仰いだ。
「こんな綺麗な月を、いつも独り占めしていたんだね、ヒュウガは」
「…呑むか?」
ヒュウガは盆の上に乗せていた小振りの瓶を持ち上げると、小さなカップをジェイドに手渡し、その中にゆっくりと透明な液体を注いだ。
「俺の故郷でよく呑んでいた酒だ。セチエで見かけたので、つい懐かしくてな」
「へぇ……変わった香りがするね」
「花酒だ。香りは爽やかだが、けっこうきつい」
言われたジェイドは乳白色の液体をゆっくりと手の中で回すと、口元のカップを運んでくいっと一気に流し込んだ。そして微かに目を見開いたヒュウガを見返し、にこりと笑ってカップを返した。
「うん、確かにクセがあるね。でも美味しいよ、これ」
「そうか……しかし意外だな」
「なにが?」
不思議そうに首を傾げるジェイドに対し、ヒュウガは改めて自分のために杯を満たすと、それを手に取って口元に微かな笑みを浮かべた。
「お前が、酒に強かったとは」
「ああ、そのことかい」
ヒュウガの言葉に納得がいったのか、ジェイドはくすりと笑うと、再び空を見上げた。
「強いも弱いもないよ、俺にアルコールは意味ないんだからね。味が気に入るか気に入らないか、それだけのことさ」
「……そうだったな」
呟いてヒュウガは、花酒を一口含むと、ふっと息を漏らして苦笑した。
「酒の味が好きかどうか、それだけでいいなどとは、別の意味で羨ましいかぎりだ」
「……ヒュウガ?」
ジェイドは伺うように仲間の顔を見つめ返したが、ヒュウガはただ黙って、故郷の酒をじっくりと味わっている。やがてジェイドも口を紡ぐと、再び空を見上げた。
「本当に、今日は綺麗な月だね…」
「そうだな。日の光よりも月の方が、俺には心地いい」
そう言って空を見上げるヒュウガの横顔を見ながら、ジェイドは驚いたように目を丸めた。
「そうかい? 俺は、こんな月も好きだけれど、やっぱり太陽の方が好きかな。昼間の日の光は、温かくて優しくて、とても気持ちが良いと思うよ」
「確かにそうだが……俺にはやはり似合わん。日の光は、少々眩しすぎる」
「そんなことないと思うけどな」
言ってくすくすと笑うジェイドの横顔をちらりと見上げたヒュウガは、やがて花酒の瓶に手を伸ばしながら、微かに微笑んだ。
「確かに、お前には明るい太陽がよく似合いそうだ。……アンジェリークという名の太陽が、な」
言って、ふうわりと花の香りが漂う酒を口に含むヒュウガの方へと、ジェイドはゆっくりと振り返って首を傾げた。
「どうしてアンジェの名前が出てくるんだい?」
「……さぁ。ただ、そう思っただけだ」
意味深に呟くヒュウガをしばらく見つめていたジェイドだったが、不意に納得したような笑みを浮かべると、また空を見上げた。
「そうだね。彼女には、太陽がよく似合う。明るくて暖かくて、キラキラ輝いてるから」
「……ああ」
そんな彼女が自分には眩しくて仕方がないのだと、触れてはならない神聖な存在だと感じてしまうのだと、口にはしないヒュウガは、軽く相づちを打って、また杯を重ねた。
「でもね、アンジェは、ただそれだけの人じゃないよ」
ジェイドの言葉に、ヒュウガはふと手を止め顔を上げた。ジェイドは空を見上げたまま、口元に笑みを浮かべて目を細めている。
「時々こんな月みたいに、とても神秘的に見えることがあるんだ。そういう時、なんだか側に居てはいけないような、でも触れてみたいような……複雑な気分になる」
「……」
「でも次の瞬間、またいつもの彼女に戻るんだけどね。太陽みたいだったり、月のようなこともあって……本当に、一瞬一瞬で変わるから、目が離せないよ」
「……そうだな」
相槌を打ちながら、ヒュウガはそっと目を伏せた。
アンジェリークは、確かに魅力的な少女だと思っている。だが彼女はヒュウガの前では、いつも穏やかな表情を浮かべるだけで、怒ったり失敗したりするところなど見せたことはない。 だがジェイドは、彼女の「普通」の姿を見ているのだ。そしてまたアンジェリークも、彼の前では安心しているからこそ、そんな部分も出すのだろう。
「…ニクスやレインが、とやかく言うはずだな」
ヒュウガが苦笑交じりに呟くと、ジェイドは不思議そうに眉尻を下げた。
「そうそう、そのことなんだけど。午後のお茶の時に、ニクスとレインがおかしなことを言うんだよ。自覚がないとか、お日さまみたいに能天気だとか、いろいろと。二人の言うことの意味がわかるなら、教えてくれないかな、ヒュウガ?」
するとヒュウガは、彼にしては珍しく、顔を背けて忍び笑いを始めた。そして怪訝そうな表情を浮かべて「…ヒュウガ?」と言いながら顔を覗き込んでくるジェイドを手で制すると、振り返って唇の端を微かに持ち上げた。
「それは、俺が教えることではないな。いずれ時期が来れば、おのずとわかってくるだろう」
「アンジェもわからないって不思議そうにしていたけど……じゃあ、彼女も時期が来たら」
「ああ、わかる」
言ってヒュウガは、盆の上に置いていた杯に手を伸ばすと、それをジェイドの手の平の上に置いて、花酒の瓶を持ち上げた。
「その時のために、少し早いが祝い酒だ……付き合え、ジェイド」
自分の手の中の杯に注がれた乳白色の酒と、少し酔ったせいか、いつもよりも表情が和らいでいるヒュウガを見比べたジェイドは、やがて微かに微笑むと、手の中の杯を乾かした。