甲板をぼんやりと歩いていた千尋は船縁にたどり着くと、四方に広がる青い海を見つめてため息をついた。台所を出てから何度目のため息だか数えるのも嫌なくらいなのだが、気がつくと出てしまうのだから仕方がない。
そう思いながらまたため息を吐いていると、やけに賑やかな羽音と足音が後ろから聞こえてきたので、千尋は振り返った。船員の誰かが仲間内で諍いでも始めたのかと思ったからだ。 が、振り返った途端、千尋の視界に飛び込んできたのは見慣れた朱だった。同時にぎゅっと背中に回される腕の温もりと、ふわりと辺りに舞う羽根に交じったサザキの香りが鼻孔をくすぐった。
「はーーーーーっっ……ま、間に合った……っ」
サザキが大きく息を吐きだすと、千尋の頬に触れている彼の胸が大きく上下する。何が起きたのかまったくわからない千尋は、サザキに抱きしめられたまま、まばたきを数回繰り返した。
「サ……ザキ?」
「馬鹿なこと考えんな、千尋。オレが悪いってんならいくらでも謝る。どんなことだってしてやる。だから……身投げなんか絶対やめてくれ」
「……え?」
サザキの言葉を千尋はしばらく頭の中で反芻した。そして彼が何に焦っていたのかようやくわかり、わかった途端になんだかおかしくなって、サザキの胸に顔を埋めたままくすくすと笑いだした。
「……姫さん?」
肩を震わせて笑う千尋の様子に、ようやく冷静さを取り戻したサザキは怪訝そうに眉をひそめた。そして首をかしげて腕の中の少女を見おろしたところで、ちょうど顔を上げた千尋と視線が合って面食らったような表情を浮かべた。
「わたしが海に飛び込むとでも思ったの?」
「へ……? だ、だってよ……」
しどろもどろになるサザキを見上げ、千尋はまた目を細めておかしそうに笑った。
「そんなことするわけないじゃない。やっとサザキと一緒にいられるようになったんだよ、そんなこと絶対するわけない」
千尋がきっぱりと言い切ると、サザキは目を見開いた。が、すぐに照れ臭そうに笑いながら、頬をぽりぽりと指で掻いた。
「だ……だよ、なぁ……オレの姫さんに限って、んなことするわけないよな! うん!」
うなずきながら「……カリガネの野郎、驚かせやがって」と小さく舌打ちしたサザキだったが、不意に真顔になると千尋をじっと見おろした。 その怖いくらい真剣な表情に、千尋はびくりと身体を震わせた。と、サザキはおもむろに千尋の方へ改めて腕を伸ばすと、彼女の身体を軽々と抱え上げて、その場にすとんと腰を下ろしてしまった。
「サ、サザキ?」
驚いて目を白黒させる千尋だったが、サザキは真顔のまま彼女の身体を胡座をかいた自分の膝の上に座らせてしまった。そして後ろから抱きかかえるようにして彼女の前に腕を回すと、そこでようやく屈託のない笑顔を浮かべた。
「ん、これで安心。こうしとけば、なにがあっても姫さんを離す心配はねぇ」
ちらりと上目遣いにサザキを見上げると、彼は穏やかな笑みを浮かべていた。いつもは子供っぽいところばかりが目に付くが、こうして包み込むような表情を浮かべて自分を見ている彼は、やっぱり大人なのだと千尋は思った。
「なーんか姫さん、この間から拗ねてるだろ」
「え? す、拗ねてなんか……」
「誤魔化してもダメだ、オレにはなんでもお見通しなんだから。ちゃんと話してみな?」
だからなにもわかっていないようで、いつもこうやって千尋の気持ちを見透かしてしまっていることを言ったりもする。それはとても頼もしいのだけれど、なんだかいかにも自分が子供に思えて、ちょっと癪に触ったりもするのだ。
しかしここで押し黙ってこれ以上サザキに誤解をされるのは嫌だったから、千尋は観念したように小さくため息をつくと、視線を落として口を開いた。
「わたしね……この船に乗ってていいのかなって」
「……は?」
怪訝そうに首をかしげるサザキを見るのが怖くて、千尋は目を伏せたままぼそぼそと続けた。
「荷物を運んだりも出来ないし、帆を上げるのだって舵を取るのだって出来ないし。海の上じゃ方向だってわからないじゃない」
千尋の言葉に、ようやくサザキは納得したようにうなずいた。そして彼女を見ながらにこりと笑う。
「んだよ、そんなこと気にしてたのか。そういうのはこのサザキ様がいっくらでもやってやるって。姫さんはどーんと構えて、ただ乗ってりゃいいんだって」
サザキの言うことはいつも優しい。だが、それがちくりと千尋の心を刺すことには気がついていない。
「ただ乗ってるだけなんていやだよ。わたしはサザキ達の役に立ちたいの……仲間なんだから」
「んーん……じゃあ、別のことを頑張ればいいんじゃないか。例えばほら、料理とか洗濯とか。ここんとこカリガネにくっついて色々やってるじゃないか。オレとしてはまぁ……ちっとばかし妬けるけどな」
軽く言って笑ってから千尋に目を向けたが、彼女は笑うどころか顔を伏せ、消え入りそうな声でつぶやきを漏らした。
「そう思ったから頑張ったんだけど……カリガネにはかなわないんだもん。お料理も洗濯も掃除も、カリガネのほうが全然上手いし手際がいいし……」
「まぁなぁ……」
ぼそりとサザキが呟くと、千尋がぴくりと肩を震わせた。だからサザキは慌てて彼女の手をきゅっと握ると、精いっぱい笑顔を浮かべて見せた。
「け、けどな! それは必要に迫られたから上手くなっただけで、姫さんはこれから上手くなってきゃいいんだって!」
焦ることないだろ、と言いながら頭を撫でてくれるサザキの暖かさに、千尋は自分の涙腺がゆるくなるのを感じた。また彼に甘えてしまう自分が嫌で、吹っ切るように首を振ってから声を絞り出した。
「でも、この間の嵐のときだって、わたし、何も出来ないうちに気持ち悪くなっちゃったし……」
「だから、あれは仕方がないって言ったろ? みんな最初は同じようなもんだ、端から船酔いしないヤツのが珍しいんだよ」
「でも……なんにも出来ないだけじゃない。わたし、ここにいてもサザキに迷惑しかかけてない」
サザキが慰めてくれるのは嬉しい。けれどこうして口にしてしまうと、改めて自分はここでは何も出来ないお荷物なのだと再認識することになってしまい、千尋は悔しそうに唇を噛みしめた。