「中つ国の姫だって言われて調子にのってた。あの時だって、みんなが助けてくれたからあそこまで出来ただけで……」
「千尋……」
「実際のわたしは、なにもできないただの女の子だってこと忘れてた。だからこの船でも役立たずだなって……必要ない人間なのかもって……」
咽喉の奥が苦しくて涙が込み上げてきそうになるのは、噛みしめた唇の痛みだけではないと自覚するのが嫌で、ぎゅっと目を閉じた千尋は、次の瞬間ふわりと身体を中腰で持ち上げられる感覚に目を開けた。
目の前にサザキの赤い髪があった。そして背中を支えてくれる力強い腕は、まぎれもなく大好きな彼のものだ。
「馬鹿なこと言ってんじゃねぇよ」
「サザ……」
「役に立たないとか、必要ないなんて言うな。あんたはオレの拠り所なんだ。あんたがいなきゃ、オレはオレじゃなくなっちまう。それって……すごいことだろ?」
サザキの声が耳をくすぐり、その心地よさに千尋は堪えた涙が溢れそうになった。
「船の扱いも荷物の扱いも料理も誰だって出来る。代わりはいくらだっている。けど、あんたの代わりはどこにもいないし、代わりを探そうって気もない。千尋だけが……オレの一番大事な宝だから」
少しくすぐったいし、告げられた言葉は気恥ずかしい以外の何者でもないのだけれど、サザキの温もりはそれ以上の安心感を千尋に与えてくれる。
「あんたを迎えに行ったとき、オレは言ったはずだぜ。もう絶対離さないってな。それを承知で、あんたはオレについてきてくれた……そうだろ?」
「……うん」
「だから、今さらあんたがこの船を降りようったってそうはいかねぇ。なにより大事なお宝なんだ……絶対、離すもんか」
「う……ふぇ」
しゃくりあげ始めた千尋の背中をあやすように撫でながら、サザキは困ったように微笑んだ。
「姫さん、泣くなって。オレが泣かしたみたいで、いたたまれないじゃねぇか」
「ううっ…サザ……キが泣かせた、んだもん……」
「……はは。それもそうか」
軽く笑ったサザキが千尋の髪を撫でると、彼女は小さく肩を震わせてサザキの首にしがみついてきた。それが可愛らしくて愛しくて、サザキは幸せそうに目を細めて油断してしまった。と、千尋は微かに身をよじらすと、彼女の動きに腕の力を緩めたサザキの顔を覗き込み、不意打ちのように彼の唇を軽く唇でついばんだ。
「……ひ、姫さん!」
急に触れてきた柔らかい感触に焦ったサザキは、顔を真っ赤に染めて口元に拳を当てた。
つい今し方、あれだけ極甘な台詞を吐いた人と同一人物とは思えないその反応に、千尋は今しがたまで泣いていたくせに、途端に楽しそうにくすりと笑った。そして改めてサザキの首に腕を回すと、甘えるようにそっと身を寄せた。
「わたしもサザキが一番好き……大好き。サザキの代わりなんていないし、きっとこれからだって見つかりっこないって思う」
「そ……っか」
ぽつりと呟いたサザキは赤い顔をしたまま、咳払いをひとつした。そして改めて目を細めて微笑むと、千尋の頬に軽く唇を寄せてささやいた。
「そしたら、オレと姫さんはお互い必要ってことだ。どこにいようと、なにをしてようと関係なく……な」
「……うん」
こくりとうなずく千尋にもう一度笑いかけると、サザキは彼女の小さな唇を包み込むようにして自分のそれを重ねた。
「なぁ、姫さん……」
「なぁに?」
寝台の上に寝転がって天井を見上げていたサザキは、不意に何か思い出したように口を開いた。
「この間から、きのことか卵とかばっか料理に混ぜてただろ……あれ、なんでだ?」
すると千尋はまばたきを数回繰り返し、それからサザキの胸元に頭を乗せたままでくすっと小さく笑った。
「……なんだよ。なーんで笑ってんだ?」
ほんの少し不愉快そうな声を漏らすサザキの態度に千尋はもういちど微笑むと、首をかしげて彼の顔を見上げた。
「サザキに苦手を克服してもらおうと思って。それができたら、わたしがここにいる理由になるかなって思ったの」
そう言って無邪気に笑う千尋を見おろしたサザキは「……そんな理由かよ」とぼやくと肩をすくめてため息をついた。
「オレはてっきり、なんかヘマをやらかして、姫さんの機嫌を損ねたんだと思ってたんだぜ」
「仕返しされてると思ってたんでしょ?」
何がそんなに楽しいのか、千尋はくすくすと笑いながらサザキの頬をちょんと指で突いた。
「でも、そう思うってことは、なにか思い当たることがあったの?」
「いーや、さっぱり。だからなんでなんだって、すげぇ考えちまったんだって」
「そっか……」
ふふっと笑う千尋を恨めしげに見返してたサザキだったが、ふと表情を引き締めたかと思うと、すぐに口元に笑みを浮かべて千尋の腕をきゅっと握りしめた。 そして目を見開く彼女の額に接吻ると、体勢を入れ替えて千尋の身体を寝台の上に優しく拘束した。
「……なー、姫さん」
「な、なに?」
「あんたの手作りとはいえ、嫌いなものを一生懸命食べたんだぜ。だから……ご褒美くれよ」
「ふぇ? ちょっ、サザキ! さ、さっき……っ!」
けしからぬ動きを始めたサザキの手に焦る千尋の様子に、ようやく溜飲が下がったらしいサザキは楽しそうな笑い声を立てた。
「あのくらいじゃ口直しにもならねーって」
「きゃあっ!」
わーわーと騒ぐ千尋の声はやがて夜の闇に溶けたかのように聞こえなくなり、辺りにはただ規則正しい波音だけが響いていた。