薄衣の向こう

(9)

「――カリガネ。ちょっと来てくれ」

食堂の奥の厨房で堅い芋をすり潰すことに没頭していたカリガネは、仲間の声に顔を上げて肩越しに振り返った。

「……なんだ? 急ぎの用でないなら後にしてくれ」

「急ぎといやぁ急ぎっていうか……大将が、酒を飲んでんだけどな」

歯切れの悪い青年の言葉にカリガネはまたくるりと背を向けると、一旦置いていた杵付棒を再び手に持った。

「サザキが酒を飲むなど珍しくもないな……」

身もふたもないカリガネの返事に、日向の青年は今度こそ慌てたように腕を広げた。

「確かに大将が酒を飲むのなんか珍しくもなんともねぇけど! けどな、日暮れから飲み始めて、今どのくらいいったと思う? まだこんなちっさい猪口に二盃も呑んでないんだぜ? な、おかしいだろ!?」

そう言いながら右手の人差し指と親指で小さな円を作りながらカリガネのもとへ駆け寄った青年は、泣き出しそうな表情を浮かべて敬愛する一族の大将の腹心の顔を見上げた。

「そんでもって、なんかどんより暗い顔してるしよ……なぁ、もしかして大将、橿原の奴等に毒かなんか飲まされたんじゃ……」

「千尋たちがいるかぎり、そんなことあるはずがない。滅多なことを口にするな」

カリガネが眉間にしわを寄せて叱責したが、青年は「でも……じゃあなんで大将はあんななんだよ?」と言い募りながらカリガネに詰め寄った。

だからカリガネはそれ以上作業を続けるわけにもいかなくなって、諦めたようなため息をつくと杵付棒を擂粉木鉢の中に置いた。

「大方、帰り道でつまみ食いでもした木の実かなにかに当たっただけだろう。――騒ぐほどのことでもない」

千尋に久しぶりにカリガネの菓子を食べさせたいから作ってくれ!と大騒ぎして、朝早くからサザキにたたき起こされたカリガネは苦々しげに呟いた。

持たせた菓子だけで飽き足らず、拾い食いなどして腹を壊しているのなら自業自得だ。

苛立たしげに足音を立てながら歩くカリガネを、青年が扱けつ転びつ追いかけてくる。そうして長い回廊を抜けた二人は、天鳥船の最上階ともいえる堅庭に足を踏み入れた。

ここはその名の如く、船の中に出来た庭だった。この場所の天を覆うのは岩ではなく、今は宝石のように輝く星をちりばめた夜空だ。

箱庭のようなこの小さな空間には、ちょうど真ん中に天井がシダなどの緑で覆われた東屋がある。その東屋の石段にサザキは腰かけ、ぼおっと夜空を眺めながら猪口を手にしていた。

「――サザキ」

カリガネが抑揚のない声で問うと、意外にもサザキはすぐに振り返った。

酔った所為か具合が悪い所為かまでは判別できない、とろんとした目でカリガネを見ながら、盃をすっと肩の高さまで持ち上げた。

「よぅ……お前も呑むか?」

「いらん」

ぴしゃりと言い放つカリガネにくくっと笑ったサザキは、持ち上げた盃を膝の上に戻した。

「んだよカリガネ。付き合い悪ぃぞ?」

「中つ国を救う手助けをしてやっただけで、十分過ぎるほど付き合っているつもりだが?」

「へへっ……ったく、那岐みたいなこと言いやがる」

へらりと笑いながらも眉をひそめて髪を掻きあげるサザキの態度に、どうやら那岐が絡んでいるらしいと感じたカリガネだったが、敢えてそこには触れずにサザキの目の前に歩み寄った。そして石畳の上に座って胡座をかくと、サザキが抱えている酒袋を顎でしゃくった。

「……もらおう」

「んだよ。いらんと言ったり呑むと言ったり……おかしな奴」

「ふっ……君ほどではない」

カリガネが笑うと、サザキもつられたように微笑んだ。そうして自身の盃を煽ると、側でどうしようかと立ち尽くしていた青年をちらと見上げ「おい。盃もひとつもってこい」と命じながら、追い払うように手の平を振った。

しかし、駆け出そうとした青年はカリガネの呼び止める声に足を止めて、困惑げに振り返った。

「盃はいらない……サザキは、もうこれ以上呑まんからな」

「はぁ? なに言ってんだ? おい、いいから持ってこいって。ついでに酒の追加もだ」

「あ……はい」

「いらんと言っている。……ここはもういい、お前は下がって休め」

「カリガネ!?」

サザキが叫んで中腰になるのを無視したまま、カリガネは青年をじっと見つめて小さくうなずいた。

その気配に青年は気圧されたように思わずうなずき返すと、そそくさと走り去ってしまった。

「お、おいっ! ……くそっ!」

小さくなった青年の背中がすっかり視界から消えると、サザキは舌打ちを一つ漏らしてその場にどっかと座り直し、目の前のカリガネにきつい眼差しを向ける。

「……どーいうつもりだ? 日向の大将に酒を呑まさないたぁ、いったい何を企んでやがる?」

だがカリガネはサザキの視線に動じた風もなく、同じように真っ直ぐ彼を凝視するとゆっくり口を開いた。

「企みなどない。ただ……日向の一族の酒は楽しく美味くが信条。そうでない者に飲ませる酒は、この船には置いていないというだけだ」

「……なに?」

再び中腰になって威嚇するように身を乗り出したサザキの、逆立って広がる羽に目を向けたカリガネは目を細めた。

「――君のその翼は、いつからただの飾りになった?」

「んだと?」

「酒も楽しめず、空を飛ぶ誇りすらも忘れた男など……この船には不要だ」

その言葉に目を血走らせて掴みかかってきたサザキの腕を、カリガネは片膝立ちをしたまま器用にかわし、勢い込んで前に転がるサザキの背後に回り込むと、彼の左腕を後ろからねじるようにして押さえつけた。

「くっそっ! 離せっ! 離しやがれっ!!」

叫んで身体を大きく揺すったが、返ってカリガネに優位な位置に着かれてしまったサザキは、右の肩と頬を石畳に押し付けられて押さえ込まれてしまった。