薄衣の向こう

(5)

ようやく風の奔流から抜け出すことに成功したサザキは、中空で一旦静止すると、己と一緒に舞い上がった塵芥を払い落としながらげほげほと咳き込んだ。

「んのやろう……っ! いきなりなにしやがんだっ!」

毒づいて橿原宮のほうへ目を向け、ぎりりと歯軋りをしてみせた。だが文句を言う為だけに戻るというのはなんとも間が抜けていると思えたので、もう一度そちらの方を睨んでから、改めてきびすを返して羽を広げ直した。

「覚えてろよ那岐。今度会ったらただじゃおかねぇからなっ!」

恐らくこの悪態を直接聞いたところで、全く動揺しないであろう那岐の顔を想像してまた顔をしかめたサザキだったが、ふと吹き飛ばされる間際に聞いた彼の言葉を思い出して、表情をゆるめた。

『千尋が好きだって連呼する割に、千尋のことなんにもわかってない』

「……ありゃあ、どーいう意味だ?」

ばさり、と翼を羽ばたかせ、根城にしている天鳥船が停泊している宇陀の麓へと、東の街道を沿うように飛び始めた。

すでに太陽は西に傾き、地平線をまるで光の帯のように赤々と照らしていた。その神秘的で荘厳な光景は、誰が見ても息を飲む美しさだ。

だがサザキの意識は先ほどからずっと、那岐が吐き捨てるように言った言葉にのみ向けられていたので、彼は辺りの美しい情景におよそ似合わぬ険しい表情を浮かべ、腕組みをしながら飛び続けていた。

「千尋のことわかってない、って言われても……オレほど姫さんのこと考えてる男はいないぜ、うん」

口に出して言うと、自分の意見に納得するように大きくうなずく。そして満足げに笑みを浮かべてみせたが、すぐにその笑顔は引っ込んでしまった。

「けど姫さんときたら、なんでも抱え込んじまう性質だからなぁ。もしかして……オレに隠し事してるとか?」

言いながら千尋の笑顔を思い浮かべ、サザキはぶんぶんと首を振った。

「いや! んなことあるわけねぇ! だって姫さん、オレには何でも話せるって、聞いてもらうと元気が出るってさっきも言ってたじゃねぇか」

なんとか楽観するほうへと持っていこうとするのだが、その度に呆れたような(むしろ哀れむような)那岐の顔を思いだしてしまうサザキは、やがて小さくため息をついた。

「やっぱ、口で言うのの何倍もハラん中に溜め込んじまってるんだろうな。なんたって、中つ国の王様だしな……」

比べ物にならない規模ではあるが、一応サザキも集団の長だ。

勝手気ままに暮らしているようには見えるが、日向の仲間たちにも一定の規律があり、それを守らせまとめるのがサザキの務めである。

そしてわずか数十人の集団でも、統率を取り続けるのはなかなか骨が折れる仕事だ。

サザキのように進んで大将を守り立てようとする者ばかりで構成された集団の長でも疲れることがある(極々たまにだが)のだから、いくら風早や柊が補佐してくれているとはいえ、千尋の心労や精神的圧力は計りしれない。

だからといって、それを全て吐きだせオレに任せておけと言えないのが、辛いところだ。

なぜならいざ聞き出したところで、その悩み全てに明確な解答を与えられる自信が、サザキにはまるでないのだから。

「食いもんやら光りもんやら着るもんやら……そういうんなら相談に乗れる。が、いざ政事なんぞと言われちまったら、オレにはさっぱりだからなぁ」

「じいさんに『長としての修業をしろ』って言われたとき、逃げ出しちまわなきゃよかった……」などと、過去の己の愚行を後悔してみても後の祭りだ。やがて勢いよく頭を掻いたサザキは、がっくりと肩を落として大きなため息をこぼした。

「……情けねぇ。惚れた女の悩みひとつ解決してやれないなんて……海賊としてつーより、男として情けなさすぎる……」

そうして頭を垂れたまま、どうにか羽根だけを動かし続けていたサザキは、いつの間にか天鳥船を飛び越えてしまっていた。

結局サザキはその後も、辺りに偵察に出ていた部下達が驚いて声をかけるまで、薄闇が一面に広がる豊葦原の空をぼんやりと漂っていたのだった。