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甘い人生

(2)

口に出すと余計に会いたさや寂しさが募り、ほたるは今にも泣き出しそうな表情で土間の土を睨んだ。

百地と別れていた数年間だって、寂しいと感じたことはたくさんあった。師匠に会いたいと、ひとり布団の中で声を殺して泣いた夜も数えきれないほどある。

しかしあの時の寂しさは今の切なさや苦しさと比べたらうんと軽くて、どうしていまはこんなにも寂しいと思ってしまうのかと不思議なくらいに胸が締め付けられる。

あの時とは違ってこうしておとなしく待っていれば必ず会えるというのに、いますぐに会いたいと望んでしまう我が侭な感情を、最近のほたるは持て余すようになっている。

やがてそんな想いを吹っ切るように何度も首を振ってから、ほたるは糸が切れたように上がり口にころんと身体を倒した。そうしてひやりとした床に頬を摺り寄せて目をつぶると、無意識に欠伸をしてしまった。

「ふぁ…っ。困ったな……最後の仕上げで張り切りすぎたのかも…?」

ぼそりとつぶやいたことで疲れを自覚したのか、ほたるは目を閉じたまま口元に小さな笑みを浮かべた。

「少しだけ…いいよね。少し休んで、すぐに帰れば…」

どうせ百地は今夜も帰ってはこないだろうから、それならばいっそ泊まってしまおうかとも考えたが、彼のいない庵で一夜を明かすのはなんとも切なくてなにいより落ち着かない。それに、もしも万が一明日の朝早くに百地が戻ってきたとしたら、それを寝ぼけ眼で迎えるのはどうにもばつが悪かった。

それに、彼以外にこんな街道からうんと奥まった庵を訪れる者もいない。なによりほたるは忍びなのだから、誰かが付近に近付く気配を感じれば、瞬時に覚醒することができる。

そんな安心感と自信から今度は遠慮なく大きな欠伸をしたほたるは、そのまま誘われるように眼を閉じてすぐに穏やかな寝息を立て始めた。

 

思ったよりも早く仕事を片付けた百地は、自身の庵の玄関をくぐったところでぎょっとして立ち尽くした。

それは出かけたときよりも室内が片付いていたことに驚いたからではなく、恐らくその片付けをしたのであろう弟子がなんと上がり口に横たわっていたからだ。

あまりにも無防備なその姿に、百地は一瞬あきれ返って眉間に深いしわを刻んだ。しかしすぐにさっと顔色を変え、素早く彼女の側に駆け寄ると腰を屈めてその口元に手の甲を向けた。そして乱れのない規則的な息が手にかかるのと、ざっと見たところどこにも傷や血の跡がないことを確認してから、ほっと息を吐いて身体を起こした。

「まったく…驚かせる奴だ」

決して小さな声ではないはずだが、百地の自慢の弟子は目を覚まさなかった。昔と同じあどけない表情で、実に気持ち良さそうに眠り続けるほたるを見おろしつつ、百地はゆっくりと腕を組んだ。

「……片付けにきて、疲れて眠っちまったのか。しかし、これでは俺が書き置きを残している意味がないだろうが」

なにくれとなく世話を焼いてくれるほたるの気持ちは嬉しいし、口にこそしないが感謝もしている。だからこそ、自分と同じかそれ以上に多忙な彼女の身を案じて書き置きを残しているのだが、まさかほたるがそれらを宝物のように大切に保管しているなどとは、さすがの百地も想像すらしていない。

相変わらず起きる気配のないほたる横に腰を下ろした百地は、その横顔をしばらく見つめて深く息を吐いた。

「師弟揃って忍び失格だ、な。そうやって俺の気配にも気づかずに無防備に眠っているおまえも……そんなおまえの身になにかあったのかと、見ればすぐわかるだろうに取り乱してしまった俺も……」

自重気味に笑ってほたるに手を伸ばした百地は、一瞬躊躇ってから彼女の髪を一房、指でするりと掬いあげた。

さらりと柔らかい亜麻色の髪は昔と同じ感触だったが、髪の隙間から覗く白い首筋は幼い少女のそれではなかった。

「……子供ではないと怒るくせに、昔と変わらん無防備さで甘えてくる。おまえは……俺を試してるのか?」

大切に慈しみたいという愛情と、なにもかも奪ってしまいたいという激しい恋慕が交錯するもどかしい感覚に、百地が苦々しげに笑ってほたるの頬を手の甲ですっと撫で上げた。

するとようやくほたるが小さく肩を震わせたかと思うと、ゆるりとまぶたを開いて百地をぼおっとした瞳で見上げた。

「ん……あれ? ししょ…お?」

「……ようやく起きたか、甘ったれ」

ゆるゆると身体を起こすほたるの動きに合わせ、百地の指から彼女の髪がするりと流れ落ちた。その様に百地が眼を細めていると、ほたるは目元を何度かこすりながら投げ出していた足を曲げて座り直した。

「すみません。つい、うたた寝してしまって……」

「うたた寝と言うには、ずいぶんと熟睡していたようだが…」

「……師匠のお部屋の片付けが大変だったんです!」

言って頬を膨らませるほたるに、百地は曖昧な微笑みを浮かべて「ああ、それはすまなかったな」とさらりと流してしまった。その態度にほたるはふたたび眉をひそめたが、やがて肩をすくめると表情を和らげた。

「それにしても、ずいぶん早かったのですね。戻るのは明日か明後日になるって書き置きに…」

「ああ、思ったよりも迅速に事が運んでな。おかげで寄り道をする時間も出来た」

「寄り道?」

言って首を傾げたほたるの前で、百地は無言で懐に手を入れた。そしておもむろに竹の皮の包みを取り出すと、ほたるの目の前にそれを差し出した。

「土産だ。近頃、城下の女子供が夢中になっている甘味らしい」

百地の言葉にぱっと顔を輝かせたのは、やはりくの一とはいえほたるも年頃の娘だからだろう。嬉しげに「ありがとうございます、師匠!」と声を弾ませて手を伸ばしたのだが、指が届く前にその土産はほたるの目の前から消えてしまった。