川岸に座り膝を抱えてため息をついた青年は、目の前の川面の輝きにまぶしげに眼を細めた。まもなく進軍を知らせる伝令が辺りを駆け回るだろうから、ギリギリまで誰にも見つからないよう身を縮めて刻をやり過ごす。そんなことを昨日から繰り返している所為で、なにやら自分の存在が余りにも情けなく惨めに思えてきた。
「信長様のお命は救えたのだし、いっそこのまま伊賀に戻ってしまっても…」
そもそもの契約はすでに完了しているわけだし、ここに自分が残る公的な理由はもはやない。ただ己の感情だけで、安土へと戻る軍に同行しているだけだ。自分が突然いなくなればきっと彼は驚くだろうが、それも恐らく一時のことで、すぐに日々の忙しさに忘れられてしまうことだろう。なにせ彼を労り慰めようとする女人はあちこちにいるのだし、その中には彼の人の「許嫁」とやらもいるのだろうから…。
そんなことを考えていたらつんと鼻の奥が痛くなって、中間の姿を模したほたるはぐいっと目元をこすって鼻をすすり上げた。すると林の向こうから枝を踏んで駆けてくる音が、ほたるは身体をこわばらせると懐の短剣にそっと手を添え姿勢を低くした。足音はそこにほたるが忍んでいることには気付いていないらしく、あちらこちらと林の中を駆け回り続け、やがて激しい息づかいとともに声が漏れ聞こえてきた。
「くっ、そ…どこいっちまった、んだ、よっ……」
「ひでよ……し、どの?」
思わず漏れたほたるの声を瞬時に聞きつけた秀吉は、首元の汗を手の甲で拭う動きを止めて顔を上げた。そして中腰でこちらを見ているほたるに向かって笑んでみせると、肩で大きく息をつきながら歩き出した。
「やぁっと見つけた……っ! いい加減、隠れんぼは終いにっ……しよう…やっ」
秀吉が近付いてくるのがわかったほたるは急に我に返ったのか、そそくさと立ち上がると秀吉とは逆の方へ向かって歩き出した。その態度に秀吉は眼を剥くと、よろめく足を少し速めてほたるの後を追いかけた。
「はぁ……っ、なっ、んで逃げんだっ! おい、こらっ!」
声を絞り出すように張り上げた秀吉だったが、ここまで走ってきた疲れからか川辺の草に足を取られて身体を傾がせると、「うわっ!」と叫んでもんどりうってひっくり返ってしまった。
その様子に驚いたほたるは慌てて足を止めると、逃げていたことも忘れてきびすを返して秀吉の元へ駆け寄った。そして川に半ば顔を突っ込んでいる秀吉の背を両手で掴んでぐいと川岸に引上げた。
川の水を飲んでしまったのか激しく咳き込む秀吉の背を擦りながら、ほたるは不安げに眉をひそめて彼の顔を覗き込んだ。
「秀吉殿、秀吉殿っ! しっかりしてくださいっ!」
苦しげに身体を丸める秀吉の様子に、ほたるは今にも泣き出しそうな表情を浮かべてなおも身を寄せると、すっと伸びた秀吉の手に手首を掴まれて眼を見張った。すると秀吉は何事もなかったようにぴたりと咳を止めて顔を上げ、ぽかんとしているほたるを見上げて唇の端をゆがめながら眼を細めた。
「ほれ、捕まえたっと」
「あ……」
躊躇うほたるのもう一方の手も捕らえた秀吉は、ようやく事態を悟ってまた逃げ出そうとするほたるを自分の方へ引き寄せた。
「だめだめ、もう逃がしゃあしねぇよ。がっちり捕まえちまったからなぁ」
「う……ううっ」
往生際が悪く身じろぐほたるの両の手首をまとめて掴んだ秀吉は、彼女の身体を抱き込むように背に手を回した。そうしてようやく安堵したように息を吐いてから、不意にきまり悪げに視線をさまよわせた。
「なぁ、ほたる……なんだ、その……元の姿に戻っちゃあくれねぇか? このまんまだとなんちゅうか、足を踏み入れちゃならねぇとこにいっちまうような気がするっちゅうか……」
「戻ったら、放してくれますか?」
「ん? そいつはできねぇなぁ」
「では、変化は解きません」
言って拗ねたように顔を逸らすほたるに、秀吉は大きく目を見開いた。それから困惑げに眉をひそめてたが、ふと顔を上げるとにやりと笑った。
「ふぅーん、そうかい。そんなら、そのまんまでいいぜ」
言って彼女の首筋に息を吹きかけた秀吉は、びくりと身体を震わせて振り返ったほたるに意味ありげな笑みを見せた。
「言ったよな、あんたがどんな姿だろうとオレはかまわないって。だからこのまんま皆のとこに連れて戻って、こいつはオレの愛人だって触れ回るってのはどうよ?」
言いながら彼女の手首を掴んだまま立ち上がる秀吉に、ほたるは驚いて目を見開いた。それから必死に抵抗して腕を解こうとするのだが、秀吉も負けじと足を踏ん張り痕が残るのではないかと案じるほど、きつくほたるの手を握りしめた。
そうしてしばらく、互いに唸りながら攻防を繰り返したが、とうとう先にほたるが根を上げて肩を落とした。
「わかりました…もう逃げませんから離してください」
「変化、解いてくれるか?」
小さく漏らしてうなずいたほたるの身体が、次の瞬間ぱっと輝いた。眩しさに秀吉が目を眇める前でやがて光は消え、忍び装束に身を包んだ華奢なほたる本来の姿が、秀吉の腕の中に現れた。
「ん。やはり、こうでなきゃなぁ」
満足げにうなずいて、約束通りほたるの腕を解放した秀吉は、彼女の手首に改めてそっと触れて目を細めた。
「痛かったか? すまんかった」
「……いいえ」
うつむいているほたるの手を取ったまま、秀吉は慈しむように彼女の手首を擦りながら口を開いた。
「なぁ…どうして、オレを避けてたんだ?」
するとほたるは小さく身じろぎ、うつむいたまま下唇を軽く噛みしめた。そんなほたるにちらと視線を向けた秀吉だったが、それ以上は言わずに再び彼女の手に視線を落とした。 しばらくそうして、互いの手のぬくもりを感じ合っていたが、やがてほたるが先に口を開いた。
「秀吉殿の顔を見たら、決意が鈍りそうで…怖かったのです」
「決意? なにを決めたってんだ?」
怪訝そうに秀吉が問うとほたるはまた唇を噛み、それからゆっくりと顔を上げて秀吉を見上げた。
「きちんとお別れを言わなければいけないのに…言えなくなりそうで……」