すぐに振り払われるだろうと思っていたのに、明智の姫は黙って秀吉に手を取られたまま並んで歩いている。最初こそ秀吉はわざとらしく繋いだ手指をもぞもぞと動かしてみたり、必要以上に肩を抱いて店先を冷やかして歩いたりしたが、彼女は嫌がるどころかいつになく穏やかな表情を浮かべ、黙って秀吉のなすがままに任せていた。
その違和感に、やがて秀吉は必要以上に彼女に触れるのを止めたが、それでも繋いだ手だけは決して放すまいと握りしめたまま歩き続けた。
やがて人通りがまばらになると会話も何となく途絶え、進む先には田畑のあぜ道しか見えなくなった道の端に辿り着いたところで、とうとう先に秀吉の方が根を上げた。
「あー、参った! オレの負けだ!」
叫んで天を見上げながら立ち止まった秀吉は深いため息をつくと、するりと手を離して彼女に向き直って腕を組んだ。
「なあ、お姫さんよ。いい加減、真意を聞かせちゃあくれねぇかな?」
すると明智の妹姫は一瞬きょとんとした表情を浮かべたが、すぐに真顔に戻って秀吉を真っ直ぐ見つめた。
「真意? なんのことですか?」
「とぼけるなって。いつもオレが側に寄ると離れてくくせに、今日は自分からひっついてくる。手に触れても肩を抱いても、嫌がるどころか可愛らしい笑顔のまんまだ。こりゃあなんか下心があるなと、考えない方がおかしいだろ」
組んだ腕をほどいて両の腰に当て、目の前の姫の顔を覗き込むように言って眼を細めると、桔梗姫ことほたるは再びまばたきを繰り返してから頬を微かに染めて眉をひそめた。
「ひっつくだの下心だのと、人聞きの悪いことを言わないでください。そんな考えは毛頭ありませんよ」
ぴしゃりと言って秀吉を見上げるほたるの様子に、少しだけ余裕の出てきた秀吉は軽く口を尖らせてみせた。
「なんだよぅ。そこで顔を赤らめんなら『実は、秀吉殿のこと好きになってしまって…』くらい言ってくれたっていいんじゃねぇの?」
「そのような、心にもない嘘は言えません」
「……そう言うことだけは、ずばっと言いきるよなー、あんた」
「少しくらい夢を見させてくれたって…」などとぼやきながら頭を掻き肩を落とす秀吉を、ほたるは怪訝そうに見つめていたが、やがて秀吉の眼を覗き込むように軽く首を傾げてゆっくりと口を開いた。
「秀吉殿こそ、なにか含むところがおありのようにお見受けしましたが」
「んなもの、あるわけねぇだろ。お姫さんを口説くなんざいつものことじゃねぇか」
「それはそうですが……。それだけではない何かを、お話しになりたいように思えたものですから…」
ほたるの言葉にゆっくりと顔を上げた秀吉は、間近にあった彼女の瞳を見ながらまばたきをした。
「オレが、なんか言いたそうに見えたってのかい?」
「はい」
こくりとうなずいたほたるは少し近すぎたと気がついて恥ずかしくなったのか、再び頬をほんのりと染めると秀吉から距離を取るように半歩後ろに下がった。
「いつもと同じように振る舞っていらっしゃいましたが、先ほどお会いした時の秀吉殿の眼が、なにやら寂しそうな苦しそうな…そんな気がしました」
語尾を濁すように言って視線を伏せたほたるを、秀吉はぽかんと口を開けて凝視した。するとほたるはまた顔を上げ、唖然とした表情を浮かべる秀吉を見上げて困ったように眉尻を下げた。
「まるで私に助けを求めているというか、何か訴えているような感じがしたのです。ですが……やはり思い違いだったようですね。秀吉殿が、私にそんなお話をするはずがないですから」
そう言って微苦笑するほたるを、秀吉はまじまじと見つめた。やがて惚けたように開けた口を閉じると口角を軽く上げ、ふっと息を吐いてからほたるのほうへ一歩歩み寄った。
「そうかい…あんたは、そう見たのか」
「…え?」
戸惑うほたるの両肩に手を添えた秀吉は、上体をかがめると彼女の肩口に軽く頭を乗せて顔を伏せた。そして身じろぐほたるの肩を諌めるように叩いて口を開いた。
「すまねぇが、ちっとだけこうしててくれ。これ以上は、ぜったい触れねぇからさ」
言ってほたるの肩を軽く叩くと、彼女の華奢な肩が小さく震えた。しかしほたるはその場から動かずに手を動かすと、まるで幼子をあやすように秀吉の背を軽く叩いた。
「ありがとう」
ふっと微笑んで秀吉は眼を閉じると、ゆっくりと深呼吸を繰り返した。その度に動く背をほたるの柔らかい手がそっと撫でてくれるのが心地よくて、秀吉は彼女の肩に乗せた手に軽く力を込めた。
やがてほたるは秀吉の髪に眼を転じ、眼を細めると口を開いた。
「なにかあったのですか? ……と、聞いてはだめですか?」
「ん……仕事だからなぁ、詳しくは話せねぇよ。……ごめんな」
ぼそりと呟かれた秀吉の言葉に、ほたるは軽く首を振ってみせた。
「いいえ。お仕事の話であれば詮無きことです」
「すまねぇな。ただ……ちっとばかり疲れちまったみたいだ。柄にもなく毒気に当てられちまったっていうか、さ」
眼を閉じたまま秀吉が言葉を続けるとほたるは不思議そうに首を傾げ、はっと我に返ったように顔を青ざめさせた。
「毒気……まさか、なにかの毒を盛られたのですかっ!?」
すると秀吉はくすりと笑い、ほたるの肩に置いていた手をそっと背に廻した。
「いんや、そうじゃねぇ。なんちゅうか、人の悪意っちゅうか負の感情っちゅうか……そういうやつだ」
これ以上触れない、という言を破って背に腕を廻してきた秀吉を、ほたるは何故か怒れなかった。
いつもよりも穏やかな秀吉の声音なのに、それが何故かほたるの不安を煽り、ここでこの男を突き放しては駄目だと思ってしまったからだ。かといって抱きしめ返すのも躊躇われて、ほたるは恐る恐る秀吉の身体から手を離していった。するとそれに気付いた秀吉がふっと笑って顔を上げ、ほたるの眼を覗き込んで眼を細めた。
「困ったな。あんたが優しいもんだからついうっかりと、約束を反古にしちまったが……謝ったら、許してくれるかい?」
言ってじっと見つめると、ほたるは困ったように視線を泳がせたが、すぐに眼を伏せると小さくうなずいた。そこで秀吉はもう一度微笑んでからゆっくりとほたるの身体を解放し、改めてほたるの手を取ると細い指先に視線を落とした。
「昔っから卑賤の出自よ、所詮は農民の子よと言われ慣れてたはずなんだが、織田に来てからはとんとご無沙汰でな。久しぶりに真っ向から言われたんだが……ありゃあやっぱ気分がいいものじゃねぇなあってしみじみ思ったわけよ」
秀吉の苦笑いまじりの言葉に、ほたるは軽く視線を落として唇をかんだ。きゅっと指先に力を込めるとそれは秀吉にも伝わって、彼は小さく微笑んでからほたるの手を優しく包み込んだ。
「そしたらな、なんか無性にあんたに逢いたくなっちまったってわけ。お姫さんなら、そういう瘴気を浄化してくれんじゃねぇかなって」
するとほたるは驚いたように眼を大きくして顔を上げ、秀吉をまじまじと見つめて口を開いた。
「そ、それは無理です、秀吉殿。いくらなんでも、忍びの術にそのような退魔の法はないですよ!」
慌てた様子で言葉を紡ぐほたるを、今度は秀吉が眼を大きくして見つめる番だった。やがて秀吉はくしゃりと相好を崩して快活に笑い、ほたるをふたたびぎゅうと抱きしめた。