手裏剣アイコン

つなぐ手と手

(2)

諸大名への書簡を届ける使いを、秀吉は主である織田信長に命じられることが度々ある。

ただ書簡のやり取りだけであれば、なにも秀吉が間に入る必要はない。新参とはいえ羽柴秀吉と言えば、いまやなく子も黙る織田家臣団の中でもさらに重臣の一人に数えられているくらいなのだ。

それでもなお秀吉に白羽の矢が立つのは、その弁と知己に依るところが多く、今回もまた幾度書簡を送っても突っぱねてくる近隣大名の懐柔という、一つ間違えれば命の危険もある難しい役目を申し付けられた。

そこで秀吉は普段のきらびやかな扮装ではなく、わざと粗末な田舎武者風の着物をまとって相手方の城を訪れた。

すると案の定、相手方の将は秀吉をただの雑兵と見たらしく、威圧的な態度で書簡を受け取り読み始めた。そして一通り目を通すと、縁側で黙って平伏している秀吉に対し、散々に信長の荒唐無稽ぶりに苦言を述べ始めた。終いには秀吉自身を侮蔑的な視線で睨み「貴様のような足軽風情を使いによこすとは、なんとも横柄なことよ」と鼻でせせら笑って罵った。

しかし秀吉はそれを押し黙って拝聴し続け、やがて先方が思う様言い終わったと見るや顔を上げると、にこにこと笑みを浮かべて相手をうんと持ち上げ始めた。

曰く「信長様はもとより、家中の方々は貴方様のお人柄に感服なさっておいでです。故に某のような身分卑しき者の言い分も、必ずやお聞き届けくださるはずとの仰せにございます」だの「貴公のご協力とご尽力なくしては天下を導くこと叶わず、天下万民の安寧のため、なにとぞ我らにそのお知恵とご威光をお貸しいただきたく…」とつらつら口上を述べると、やがて相手方は嬉しげに口元をむずむずさせながら、さも仕方がないと言いたげな表情を浮かべながらいともあっさり織田家に恭順するとの誓約書をしたためたのだった。

それはこの時代、織田信長に組せねば生きてゆけぬと理屈ではわかっているものの、成り上がりに頭を下げたくはないという昔気質の武士の心情を上手くついた秀吉の機転があったればこそで、だからこそ秀吉は誰一人供をつけずに足軽風を装い単身乗り込んだのだった。

もちろん一人で赴いたのはそれだけが理由ではない。

いくら策の上であるとはいえ、今の秀吉の風体では先方に赴けばどうしても軽く見られるだろうし、罵られるくらいは当たり前で、下手をすれば問答無用で斬り捨てられる可能性もあった。そんな危険なところへいくら家臣とはいえ伴うのは嫌だったし、主がそのような目に遭わされるのを見て黙っている者など羽柴の家にはいないからだ。しかし、それではせっかくの策が台なしになってしまう。だから結果として、秀吉は一人で行くしかなかったのだ。

「まぁ織田のお歴々の中にも、他家に頭を下げるなんざ死んでも御免こうむるってお人は多いからなぁ。その辺がどうにもオレにはわからねぇのは、こちとら農民の子だからなのかね。頭をひとつふたつ下げて戦がなくなるんなら、オレならいくらだって下げてやらぁな」

歩きながらぼそりと呟き秀吉は、ゆっくりとため息をつくと眉をしかめた。任務が成功したことは誇らしいし、こうして五体満足で安土に戻れたのもありがたいことだ。

しかしいくら覚悟の上であったとしても、他者から侮辱されたり無闇に軽んじられるのは、やはりいい気分ではない。

織田家の中でも秀吉の出世を妬む者はいまだ多いが、信長の手前それを公にしている者はほとんどいないから、久しぶりに当てられた他人からの侮蔑の気は、秀吉の感情を波立たせた。

「……久しぶりに、お姫さんに逢いてぇなぁ」

つぶやいて足を止めた秀吉はしばし考え込むと、くるりときびすを返して編み笠の先を軽く上げた。

「よっし! 報告は後にして、ちょっくら花のかんばせを拝みに行ってくるか!」

この任務についたことで、実に五日ほど彼女には会っていないのだ。

相手方からの誓約も取れたのだし、これくらいの寄り道は構わんだろう!などと、手前勝手な言い訳を胸の内でしながら足を速めた秀吉だったが、来た道を戻って角を曲がったところで、慌てて店の影に隠れると編み笠の渕を掴んで顔を伏せた。

秀吉が見つけた二人連れ、それは同じく織田家臣である明智光秀と、その妹である桔梗姫だった。

いま一番会いたくない相手と、誰よりも逢いたい相手が揃ってこちらに向かって歩いてくるものだから、秀吉はどうしたものかと思案しながら笠の隙間から目を凝らし、じっと息を殺して二人が通り過ぎるのをやり過ごすことにした。

秀吉が息を潜めていることを知ってか知らずか、光秀と桔梗は何やら話しながらこちらに近づいてくる。その様子を上目遣いでじっと観察していた秀吉は、明智の妹姫の顔を見つめて目を細めた。

「なんつうか…久しぶりだからか? またいっそう愛らしくなってらぁ」

桔梗の表情に満足げに鼻を擦った秀吉だったが、ふとその手の動きを止めると軽く息を詰めた。それは桔梗姫が兄である光秀を見上げ、なにかささやいた後で口元に手を当て楽しげに笑ったからだ。

桔梗の笑顔を見るのは初めてではない。もっとも秀吉の前ではなかなか気を許してくれない彼女だが、近頃ようやく自然な笑みを見せてくれることも増え、それが何よりも嬉しかった秀吉にとって、久しぶりに見た彼女の笑顔はとても眩しかった。だがそれだけではない、なにやらもやもやとした胸の閊えを感じた秀吉は、思わず顔をしかめると胸元をぎゅっと掴んで面を伏せた。

そうして秀吉が身を潜めている前を、光秀と桔梗は何事もなく通り過ぎて行く…はずだったのだが、それを止めたのは誰でもない秀吉の手だった。