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未来予想図

(6)

佐吉の入れた茶を飲み終わった桔梗姫は、それからすぐに帰り支度を始めた。残った牡丹餅はよければ佐吉と邸の者達で分けてくださいと笑った姫は、こそりと小さくささやいた。

「味の心配はもうありませんから、安心して召し上がれ」

それから当然のように立ち上がって後をついてくる秀吉を振り返った桔梗は、佐吉をちらと見てから秀吉に視線を戻した。

「秀吉殿、お仕事の邪魔をして申し訳ありませんでした。ここまでで結構ですので、どうぞお仕事にお戻りください」

「いや、しかしだな。お姫さんを一人で帰すなんざ…」

追いすがろうとする秀吉に微笑んだ桔梗は、彼の隣にいた佐吉に目を向けた。

「佐吉、秀吉殿のお仕事の邪魔をするわけにはいきませんから、あなたが代わりに邸まで共をしてくれますか?」

「え? あ、はっ、はいっ!」

思わず叫んでから、その自分の声の大きさに驚く佐吉ににこりと微笑んだ桔梗姫は、改めて秀吉に頭を下げた。

「では、佐吉をしばしお借りします。秀吉殿、どうかお心置きなく執務に励まれますよう…」

「ち、ちょいとお姫さんっ!」

慌ててすがってくる秀吉をひらりと躱した桔梗姫は、佐吉の肩に手を置くと連れ立って歩き出した。

往生際が悪く桔梗の名を叫ぶ秀吉を無視し邸の門を出た桔梗は、しばらく歩いたところで佐吉の肩から手を離した。それと同時に佐吉は、ちらと桔梗の顔を伺い見た。

「あの……姫様。ありがとうございました」

桔梗が自分の方へ目線を落としたのを確認し、佐吉は照れくさそうに視線を逸らして前を向いた。

「秀吉様がきちんと仕事をするよう、計らってくださったのですよね?」

「さきほどお部屋に通された時、文机の上に書簡が山になっていたのが見えたものだから。思いがけず長居をしてしまって、迷惑をかけたのではないかしら?」

「いいえ! そんなことはありません!」

首を振った佐吉は改めて桔梗を見上げ、首を傾げている彼女に軽く微笑んでみせた。

「以前の秀吉様はいまそこに居たと思ったら、次には遥か向こうの女房達に囲まれているといった風にほんとうに神出鬼没だったのです。ですがいまは、いつ姫様がいらっしゃってもお会いできるよう、邸にいらっしゃる時間がうんと増えました。今日だって仕事が嫌ならば外に逃げてしまえば良かったところを、中庭の茂みの陰に隠れていたんですよ」

「まぁ……私が来る前からさぼっていたのですか?」

桔梗が呆れたように眼を見張ると、佐吉はくすりと笑って口元に拳を添えた。

「はい。ですが姫様のおかげで捕まえることが出来ました。これで今日はおとなしく、残りの執務をこなしてくださると思います」

そう言って佐吉は顔を上げ、疑わしげな表情を浮かべている桔梗に微笑んだ。

「姫様に構っていただいたので、今日は一日ご機嫌なはずですから。秀吉様はやる気にさえなられれば、なんでも手際良くこなしてしまうお方なんです」

言って自慢げに胸を張って歩く佐吉に、桔梗は驚いたように眼を見張った。そしてすぐに表情を和らげると、軽く首を傾げて佐吉を見おろした。

「ふふっ。佐吉は本当に、秀吉殿のことをなんでも知っているのですね。もっともあなたのほうが、秀吉殿の父上か兄のようですけれど……」

「そ、それは買いかぶり過ぎです、姫様」

焦った様子で首を振る佐吉を、桔梗はくすくすと笑いながら優しく見つめた。そんな姫の横顔をぼんやり見つめ、やがて佐吉は頬を赤らめて視線を逸らした。

そうしてまた黙って石段を昇り続けて、ようやく明智邸が視界に入ったところで佐吉は拳を握りしめると、意を決したように顔を上げた。

「あのっ、姫様っ!」

「はい?」

石段の途中で立ち止まった桔梗を、佐吉は一段低いところから見上げて口を開いた。

「小姓の私が申し上げても、ただの主自慢に聞こえてしまうかもしれません。けれど、それでも敢えて言わせてください」

「……」

「秀吉様というお方は、一見ただのお調子者に見えるかもしれません。ですがその実、あの方ほど民の苦難を憂い、世の乱れを嘆く慈悲深いお方はいらっしゃいません。私はまだ未熟ですがそれでも、あの方こそがいつの日にか必ず、この国を太平へと導いてくださる方だと信じ、どこまでもついて行くつもりです。ですから姫様も、どうか表面ではなくあの方の真の姿を見てください!」

言い切って肩で息をする佐吉を黙って見ていた桔梗の脳裏に、過日秀吉が言った言葉が浮かび上がった。

『信長様こそが、この国に太平をもたらしてくれるお人だ。だからオレは、その信長様を終生お支えする』

桔梗がどこか懐かしげな表情を浮かべて黙っているので、佐吉は怪訝そうに首を傾げて彼女の顔を覗き込んだ。すると桔梗は口元を袖の裾で軽く覆って笑うと、佐吉の髪をふわりと撫でた。

「本当に、佐吉は秀吉殿を慕っているのですね」

「はい。秀吉様のお陰で、私は己の進むべき道を見つけました。秀吉様にお会いしていなければ、私は世になにも成さずに生を終えていたことでしょう。どれほど感謝しても、したりないです」

ためらわずに言う佐吉の毅然とした態度に、、桔梗は眩しげに眼を細めた。すると佐吉は桔梗の瞳をじっと見上げ、やがて視線をほんの少し落として言葉を続けた。

「それと……私は、姫様のこともお慕いしています。さすが秀吉様が認めた女人でいらっしゃると思っております」

「……え?」

桔梗が驚いて目を見張ると、佐吉はほんのり朱に染まっている顔を上げた。

「ですから、そんなお二人が仲睦まじくされていると、心がほんわかと温かくなります。姫様に名前を呼ばれると、懐かしいような、くすぐったいような、不思議な気持ちになります。でもそれは全然嫌ではなくて……だから、いつか……」

「いつか……?」

佐吉の言葉尻を反芻する桔梗を真っすぐに見上げ、佐吉は真剣な表情で口を開いた。

「いつか姫様を、お名前で呼べる日がくるといいです。そうなるよう、佐吉は心よりを願っておりますっ!」

桔梗が困惑したような表情を浮かべる前で、佐吉はぺこりと頭を下げた。そして「それでは失礼いたします」と叫ぶとくるりときびすを返し、危なげなく石段を駆け下りて行ってしまった。

すっかり小さくなった少年の背を眼で追っていた桔梗姫は、しばらくその場に立ち尽くしていた。やがて口元に袖を当てて軽く眉をひそめると小さく息を吐いた。

「……まさかとは思うけれど、今のは求婚なのかしら? そんなところまで、秀吉殿に似なくていいのに……」