「おーい! いま帰ったぞーっ!」
叫びながらきょろきょろと辺りを見回した城主が廊下を歩いていると、庭先から廻ってきた新妻が驚いた表情で縁側の石の前で草履を脱いだ。
「お帰りになるのなら、先触れをお出しくださいな。お迎えに上がりましたものを…」
「あんたに早く会いたくて、使いなんぞ追い越しちまうと思ったからさ。そんなら、余計な手間をかける前に帰ってきちまったほうがいいだろ?」
石の段を上がるほたるの手を取った秀吉はそう言うと、改めてほたるを見つめて笑みを浮かべた。
「夢にまで見た恋女房殿にようやく逢えて、やっと帰って来たって気になったぜ」
「ふふっ。お帰りなさいませ、殿」
にこりと笑ってほたるは秀吉の後ろに廻ると、彼の陣羽織をそっと脱がし始めた。そうして軽装になった秀吉の前に正座をして座り直すと、ほたるは指をついてゆっくりと頭を下げた。
「ご無事のご帰還、執着至極にございます。誠にお疲れさまでございました」
「うん」
大仰にうなずいた秀吉はその場に腰を下ろすと、顔を上げたほたるににこと笑いかけてから彼女を手招いた。
「ほたる、ちっとこっちに来てくれ」
「はい」
うなずいて腰を浮かせたほたるは、招かれるまま秀吉のすぐ前まで歩み寄った。そして改めて正座をし直すと、秀吉はまた屈託のない笑顔を浮かべ、それから身体をひねるとほたるの膝の上に頭を乗せ、仰向けに横たわった。
「お前さま?」
「はーーーっ……これでようやく落ち着いたぜ。なにせ帰りは駆けに駆けてきたもんだから、もうくったくたでよぅ」
「お疲れならば、すぐに床の用意をしますよ?」
ためらいがちに夫の髪に触れる妻の指先を軽く握った秀吉は、頭を預けたまま首を振った。
「いんや、必要ねぇよ。あんたの膝枕が恋しくて慌てて帰って来たんだ……だから、しばらくこのままでいてくれ」
そう言って秀吉が眼を閉じると、ほたるはくすりと笑ってから「…はい」と小さくうなずいた。
ほたるの指先を引いて目の前に持ち上げた秀吉は、白く細い指を優しく撫でながら目を閉じたまま口を開いた。
「オレがいない間、寂しくなかったかい?」
「そうですね、寂しかったですよ。でもいろいろなことを皆に教えてもらったり手伝ったりしたので、けっこう忙しかったです」
「今も洗濯の途中だったのですが…」と言ってほたるがため息をつくと、秀吉は目を開けほたるを仰ぎ見た。
「洗濯だって? あんた、またそんなことやっちまってんのか。そういうのはなぁ、一城の主の奥方がやることじゃないって言っただろ?」
「ですが皆が働いている時に、私だけぼんやりしているなんて嫌です。時間があったのですから、手伝うくらいいいじゃないですか」
「なにもせずにどっしり構えてるのも、城持ち大名の奥方の勤めだぜ?」
「それでも……やはりなにもしないでいるというのは、性に合いません」
「ったく。相変わらず頑固だなぁ、ほたるは」
呆れたように秀吉が笑うと、ほたるは夫の顔を見おろし、拗ねたようにほんの少し口を尖らせた。
「もうっ、そもそもお前さまが悪いのではないですか!」
「オレが? なんでだよ?」
「お連れくださいとお願いしたのに、危ないから駄目だと連れて行ってくれませんでした!」
「あのな。大事な女房殿を、戦場に連れてく男がどこの世界にいるってんだ」
呆れたように言ってまた目を閉じた秀吉を、ほたるはむっとした表情で軽く睨んだ。
「私はただのおなごではありませんよ? 戦場でだって、家臣の皆さんに引けを取ったりはしません」
「ああ、そうだろうよ」
「だったらなぜ、連れて行ってくれなかったのですか? 未熟なところはこれからいくらでも、補っていけるよう努めますから……」
「……ほんと真面目だよなぁ」
くくっと喉の奥で笑った秀吉は、掴んだままのほたるの指に己の指を絡ませてきゅうと握りしめた。
「あんたが優秀な忍びだってのは、オレだって十分わかってる。けど、それとオレの感情とはまた別ってこったよ」
「別の問題、ですか?」
「わかんねぇかい? あんたの忍び装束ときたら、身体にぴたっと張り付いてるみたいでかなりきわどいだろ?」
「あれは……そのほうが動きやすいから」
「だろうな。けどそんな衣装つけたてめぇの女房が、戦場にうようよいる男共の前を駆け回っててみろ。こっちは気が気じゃなくて戦どころじゃなくなっちまわぁな」
秀吉の胸中をようやく理解したほたるは、そこでようやく顔を赤らめた。そんな彼女の手をさらに強く握ると、秀吉は再び目を開けて口を尖らせてみせた。
「おまけに変化の術なんぞ使って男に化けた日にゃあ、我が奥方殿は野営でもなんでも気にせずに他の男共と一緒に休んじまうだろうが。んなの、絶対に許せるもんかい!」
ふんと鼻を鳴らして眉をひそめる秀吉を、ほたるはただ無言で見つめるしかなかった。
やがて諦めたように肩をすくめたほたるは、微苦笑を浮かべながら秀吉の逆立った髪をそっと撫でた。
「まったくもう……そういうことなら、仕方がありませんね。ヤキモチ妬きの殿のおっしゃる通り、これからもおとなしく留守居をしております」
「ああ、そうしてくれ」
満足げにうなずいてほたるの指先に唇を寄せた秀吉は、口元に笑みを浮かべたままゆっくりと目を閉じた。
「あんたがここで待っててくれる。それがなによりの、オレのお守りなんだから」
言って秀吉は大きな欠伸をすると、ほたるの膝を愛おしげに撫でてからふっと身体の力を抜いた。
やがて寝息を立て始めた秀吉の黄金色の髪を、ほたるが梳くように撫でながら空を見上げたところへ、廊下の向こうから軽やかな足音が響いてきたのに気づいた。
ゆっくりとそちらに顔を向けると、ちょうど廊下の角を曲がった佐吉が二人を見つけて、ぱたぱたと駆け寄ってくるところだった。
そんな少年に向かってほたるは「しーっ…」と呟き口に手を当ててみせたので、佐吉ははっとして足を止めた。
「今しがたお休みになったところなのだけれど……急な用件かしら?」
ささやくようにほたるが訊ねると、佐吉は立ち止まったまま小さく首を振った。
「いえ。お帰りになられたと聞いたので、御挨拶をと」
「そう。ではあと半刻もしたら、またいらっしゃい。その頃には眼を覚まされると思うわ」
「ほたる様、そんなことまでわかるのですか?」
驚いて声を張り上げた佐吉は、すぐに慌てて自分の口元を押さえた。するとほたるは眼を細めて笑い「それよりも長いと私の足が痺れてしまうから。それを知っているから、足が痺れる前にちゃんと起きてくれるの」と言って、秀吉の寝顔に視線を落とした。
「一見この人が甘えているようだけれど、実は私のほうこそ、この人に甘えているのでしょうね」
「ほたる様……」
佐吉が心なしか顔を赤らめてそうつぶやくと、秀吉は小さく鼻を鳴らしてほたるの膝をぐっと引き寄せた。そしてまた彼女の指先を握ったままいびきをかき始めたので、ほたるは顔を上げると困ったように微笑んだ。
「でも、こうして私の限界ギリギリまで絶対に起きないところが、殿の可愛くないところよね?」
「あ、ははっ……」
ぎこちない声を立てて笑った佐吉に、ほたるも釣られてくすくすと笑い始めた。
そうして結局、姫路の城の奥方様と城主自慢の小姓の少年は、城主殿が「なんだよー。オレを差し置いて、いつまで二人で盛り上がってんだぁ?」と不貞腐れて狸寝入りを止めるまで、楽しげに談笑を続けたのだった。