そんなほたるを前に秀吉はまた頭を掻き、胡座をかいた膝の上に肘をついて小さく息を吐いてから言葉を発した。
「まぁそれはそれとして……どうやって誰にも見とがめられず陣屋に忍び込んだんだい? って、訊くだけ野暮かもしれねぇが」
秀吉の問いにほたるは顔を上げ、小首を傾げて困ったように微笑んだ。
「はい、恐らくはお察しの通りです。小鳥に変化して飛んで参りました」
「だろうな。流しの商人や遊女には気をつけろとは下知しているが、まさかに奥方様が鳥や蛙に変化して忍び込むかもしれねぇたぁ、いくらオレでも言えねぇよ。こっちの頭がおかしくなったと疑われちまわぁ」
言って肩をすくめた秀吉は、くすりと笑うほたるに目を細めて言葉を続けた。
「で、怪我をおしてまで変化の術を使い、家臣達の目をかいくぐって陣屋に忍び込んだからには、オレに大事な話があるんじゃないのかい? 独り寝に枕を濡らすオレを想って夜這いに来てくれたってんなら、そりゃあ大歓迎だが…」
するとほたるは間髪入れずに「いいえ」と首を振り、がくりと頭を垂れる秀吉の前で表情を引き締めた。
「先ほどのお願い、覚えておられますか?」
すると秀吉はほんの少し不快げに眉をひそめてから、ため息を零しつつ軽くうなずいた。
「……ああ。覚えてるよ」
「でしたら、私の申し上げたいことはおわかりのはず。私はあなたの許す心、温かい心持ちを信じております。どうぞ、あなた自身が後悔せぬような処断をお取りいただきますよう、伏してお願いいたします」
「……つまり、城を攻め落とすのを考え直せって?」
「はい」
躊躇いなくほたるがうなずくと、秀吉はもう一度ため息をついた。それから軽く天井を見上げて沈思した後、おもむろに口を開いた。
「残念だが……そいつぁ聞けない話だ。いくらあんたの頼みでも、こればっかりは聞くわけにゃあいかねぇ」
「秀吉殿っ!」
思わず身を乗り出すほたるを、秀吉はその視線で制止した。夫の初めて自分に向けられた険しい表情に、ほたるは身体を固まらせて動きを止めた。
「あいつを生かしておけば、信長様の天下布武の妨げになる。そいつぁつまり、天下泰平への障害でもある。オレはこの世の民が等しく平和に暮らせるよう、信長様の元で働いている。だからその妨げになる者を、オレは取り除かにゃあならん」
「でもありましょうが……ならば城主はともかく、城に残る大勢の女子供は関係ないではありませんか。その者達にまで危害を加えるは筋が違います」
「城の中の女子供は、みな城主の女房と子供。関係がないとは言わせねぇよ。忌まわしい血の繋がりは、もろとも断ち切ったほうがいい」
「そんな……ならば家臣はどうなのですか? 確かに城主の横暴を止めなかった者が大半ですが、中には城主のやり方に反対して獄に繋がれている者もおりました。城に火をかけるということは、そんな者達まで道連れにすると言うことなのですよ?」
「そうだな。家臣どもも気の毒ではあるが、暗愚な主を放置した罪は重い。そいつに組したことがそもそもの間違いと諦めて、身を持って償ってもらうしかない」
「秀吉殿……本当に、そんな風に考えているのですか?」
「ああ。オレは武士だからな」
今までに感じたことのない秀吉の冷たい雰囲気に負けまいと気力を振り絞り、ほたるは手の平一つ分秀吉に近づいて訴えた。
「そんな……あなたは武士だけれど、その前にひとりの人間なのですよ! 人として生きること、自分らしく生きることがなにより大事なのだと、私に教えてくれたのはあなたではないですか! なのに……そのあなたが、武士という殻に自分を押し込めて、人としての気持ちを消してしまうのですか?」
すると秀吉は冷めていた瞳に急に炎を灯し、ほたるの肩に手を伸ばして掴むと片膝を立ててほたるに詰め寄った。
「ああ、そうさ! オレぁただの人間だ! どうしようもねぇほどあんたが好きで好きで仕方がねぇ、ただの男なんだよ! 惚れたあんたを傷つけられて、ヘラヘラ笑って許せるほど人間が出来てねぇ、情けねぇ男なんだよっ!」
言ってほたるを抱き寄せた秀吉は、ほたるの息が止まる勢いできつく彼女を抱きしめて黒髪に顔を埋めた。
「……怖かったんだよ。恐ろしくてたまらなかった……戦場で見た屍体みてぇに真っ青な顔したあんたが運ばれてきたのを見たとき……頭ん中が真っ白になって、震えが止まらなかった。あんたを失うなんてこれっぽっちも考えてなかったから、いきなりそんなもん突き付けられて、どうしていいかわからなかったんだ」