ほたるの夫である羽柴秀吉の主君信長は、一見冷徹なだけの人物のように世間では流布されているが、才のある者や己の利となる者には格別の待遇を与えるのを惜しまない人間である。
そして同時に、恐ろしいほどの慧眼で人の本質を見抜いてしまう。だからこそ、己が認めた者でなければ、どれほどの位や地位にある者でも容赦はしなかった。
そんな信長が「あの男は使えぬ。畜生にも劣る俗物よ。生かしておればおるだけ、世の民が泣くことになるであろうほどに、早々に殺してしまえ」と吐き捨てるように言って秀吉に処分を命じた相手なのだから、恐らくは彼の言う通りの愚物なのであろう。しかし、それでも秀吉は信長の言うままにはならず、しばらく口をつぐんでいたかと思うとゆっくりと顔を上げて主君をひたと見据えた。
「確かにあの男は、信長様のおっしゃる通りの最低野郎だとオレも思います。今更なにを言ってこようと、許すつもりなんざこれっぽっちもありゃしません。ですが……」
「ですが、なんです? 信長様は早急の処罰を命じたはず。そのご命令に不服でもあるのですか?」
そう言って冷ややかな視線を秀吉に向けたのは、秀吉よりもさらに信長の近くに鎮座していた明智光秀だ。
すると秀吉は両手を大げさに振りながら目を大きくして光秀の方へ向き直った。
「いやいやいや、そんなつもりじゃねぇよ! 確かにあいつはどうしようもねぇクズ野郎だ、かばうとこなんざ微塵もねぇって。けどな……」
言ってちらと信長に視線を送ると、信長は鋭い眼光で秀吉を見つめ返している。しばしの静寂の後、信長は口元に薄い笑いを浮かべると脇息に凭れて口を開いた。
「光秀、控えよ。――秀吉。かまわぬ、申してみるがいい」
「はっ!」
仰々しく頭を垂れた秀吉は、苦々しげな表情を浮かべる光秀をちらと見てから、改めて信長を真っ直ぐに見据えた。
「あやつの処断については、ご命令通り執り行います。しかし城内の女子供に罪はありません。また家臣の中にも、主の蛮行を諌めたために牢に繋がれた者もいると聞き及んでいます。そのような忠臣まで暗君と同じに処分しちまうなんてのは、ちとおかしいんじゃないかと」
「ほう……仕える主が暗君であったことを見抜けなんだは、罪ではないと申すか」
鼻で笑う信長を前に、秀吉はかしこまった表情でゆっくりとうなずいた。
「それもまた人の縁の故だと思います。誰が悪いわけでも罪があるわけでもなく、天の巡り合わせだと。そうでなけりゃ、殿を残して逝かれた平手殿は、とんだ勘違い野郎だったってことになっちまうじゃないですか」
「なんだと?」
さすがに信長の顔がさっと険しくなったと同時に、光秀と信長の後ろに控えていた蘭丸が片膝を立てて身を乗り出した。
「いささか口が過ぎたようですね、秀吉」
「秀吉殿、お控えなされよっ!」
「こいつはちょいとばかり口が滑った。平にご容赦!」
言って床に這いつくばるように頭を擦り付けた秀吉を、信長はじいっと睨みすえていたが、やがて呆れたように肩をすくめると鼻で笑ってみせた。
「忌々しき奴め。政秀の名を出せば、余が折れると見抜いての失言であろうが」
「さすがのご慧眼、恐れ入りましてございまする」
床に擦り付けた頭を更に低くした秀吉が恭しく言うと、信長はついに耐えかねたように声を出して笑った。
そうして驚く蘭丸に下がるように手を振った信長は立ち上がると、床にへばりついている秀吉の前に歩み寄って上体を屈めた。
「よい、貴様の思う通りにせよ。ただし、あの男だけは決して逃してはならぬ。またあやつに組する者も生かしておくことは許さん。それ以外は――貴様の好きにせい」
「はっ、ありがたき幸せ。仰せの通りに!」
床にめり込ませるように頭を下げると、信長はもう一度喉の奥で笑って立ち上がり、秀吉に背を向けて歩き去ってしまった。その後を蘭丸が恭しく追いかけて姿を消すと、光秀が改めて秀吉に目を向けてゆっくりと息を吐いた。
「信長様の御前で平手殿の名を出すとは――死にたいのかい、君は?」
すると秀吉はゆるゆると顔を上げ、光秀を恨めしげに見ながら肩をすくめた。
「馬鹿言うな、光秀。愛しいほたるを残して死ねるかってんだ。信長様ならオレの言わんとすることを汲み取ってくださる。そう信じていたからこその発言だっての」
自慢げに鼻を鳴らして胸を反らす秀吉を、光秀は呆れたように目を細めて見つめてから再びため息をついた。
「ならばもう少し慎重を期して欲しいものだ。信長様の逆鱗は、なにがきっかけになるかわからないのだから。私も僅かではあったけれど、妹と呼んでいたあの子が悲しむところは見たくないからね」