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夢への軌跡

(3)

ほたるに指摘されてようやく気付いたのか、佐吉は慌ててほたるから身を引くと茶碗を盆の上に戻し、きまり悪げに頬を染めてうつむいた。

「も、申し訳ありません。私の手など構いませんが、奥方様にも白湯をおかけしてしまうところでした」

するとほたるはまたくすりと笑い、自分の膝の上でぎゅっと握りしめている佐吉の手にふわりと触れた。

「あなたが取り乱しているところを、初めて見たわ……ふふっ、たまには怪我もしてみるものですね」

ほたるが軽口のつもりで言うと、佐吉は勢いよく顔を上げてほたるを睨み、珍しく頬を膨らませて声を荒げた。

「そのようなことを冗談でもおっしゃらないでくださいっ! 奥方様がまた怪我をなさるなど考えたくもありませんっ!」

意外な剣幕にほたるは面食らったように目を見開いたが、やがて苦笑いを浮かべると瞼を伏せて肩で息をついた。

「そうね……ごめんなさい。……ありがとう、佐吉」

言ってほたるは佐吉の頬に触れ、子供特有の柔らかい感触に目を細めながらそっと撫でた。するといつもは「子供扱いなさらないでください」と身を引くはずの佐吉が、おとなしく頭を垂れてほたるのなすがままにさせている。それがどれだけこの少年に心配をかけたのかという証のようで、ほたるはもう一度「ごめんね……」と呟いて少年の髪を愛おしげに梳いた。

やがてほたるの手に遠慮がちに触れて動きを止めさせた佐吉は顔を上げ、いつもと同じようにきりりと表情を引き締めて姿勢を正した。

「城の者に奥方様がお目覚めになったことを知らせて参ります。白湯もすっかり冷めてしまったので、代わりをお持ちしましょう。それでは、しばし御前失礼仕ります」

作法通りに告げた佐吉は深々と頭を下げ、颯爽とした身のこなしで立ち上がった。この少年は将来、必ずや数多の女人を虜にする美丈夫に成長するだろうなと想像しながら笑みを浮かべてうなずいたほたるだったが、ふと彼の言葉に引っかかりを感じて口を開いた。

「佐吉、あの……殿は? こちらにはお渡りいただけないのですか?」

すると佐吉は明らかに動揺したように身体を震わせ、歩みを止めた。そうしてほたるを振り返ろうとはせず、一瞬ためらってから小さくうなずいた。

「はい……秀吉様は、いまご多忙中ですので……。いずれ、折りをみてお渡りになられると思います」

以前のほたるであれば、こう言われたら素直に納得していただろう。しかし決して短くはない時間を秀吉とともに過ごしてきた今のほたるには、彼女が負傷して臥せっているというのにまったく様子を見に来ない秀吉など考えられない。明らかに不自然だ。

そこでほたるは笑みを引っ込めると、佐吉の背中を睨むように見つめた。

「佐吉……なにか隠していますね? 秀吉殿は、いまどうしておられるのですか?」

普段は優しいほたるの声音が、同じ人間なのかと驚くほどに冷ややかなものに変わる。これがただの姫御前ではなかった奥方様の真の姿のひとつなのだと頭ではわかっている佐吉だったが、闇の者が持つ特有の気配に圧倒されて息を飲んだ。

やがて大きく肩で息をついた佐吉は、諦めたようにゆらりとほたるに向き直り、再び枕元に正座し直すと視線を床に落とした。

「秀吉様は、ご出陣なさいました。奥方様がお戻りになられて、すぐに……」

その言葉にほたるが大きく目を見開くと、佐吉はすっと顔を上げてほたるを真っすぐに見つめた。

「ほたるをこのような目に遭わせた輩を許すわけにはいかぬ。篭城を解かずともかまわぬ、このまま火をかけ城もろとも皆殺しにしてやると……そう申されて……」

ぞくりとほたるの背筋に怖気が走ったのは、夫の言い分が常の彼が何よりも厭っている手段であり、主君である織田信長からの命と同じだったからだ。

「秀吉殿が……まさか……」

声を震わせるほたるの青ざめた顔をしばし見つめ、やがて佐吉は視線を落とすと膝頭をぎゅうっと握った。

「私もあのような秀吉様を見たのは初めてです。恐ろしいほど冷ややかに、凍り付くような冷たいお声で――」