安土に出向いた秀吉が姫路の城に戻ったのは、それから数日経ってからだった。いつになく顔色の冴えない夫に、ほたるは「なにかあったのですか?」と問うたが、途端に秀吉はにこりと笑って「なんでもねぇよ。ちっとばかり疲れたのと、あんたの顔がしばらく見れなくて寂しかっただけさ」と言いながらほたるをぎゅうと抱きしめ、家臣の前で赤くなって慌てる妻に目を細めた。
そのためほたるは秀吉が本当に疲れているだけなのだと思い込み、その場をそそくさと立ち去ったのだが、その後すぐに家臣達がぞろぞろと謁見に集まってきてようやく、秀吉がとある領主の討伐を命じられたことを知った。
そこでいつものように会議に参加するために、広間の末席に座っていたほたるだったが、彼女の姿を見つけた秀吉は微かに眉をひそめると「すまねぇが、今回は席を外してくれ」と言い放った。
そんなことを言われたことのないほたるは驚いて目を大きくしたが、すぐに表情を引き締めて背筋を伸ばした。
「何故ですか? これまでも殿がご出陣の折りには、常にお側に置いてくださったというのに」
「そりゃあ今までは交渉事が主だったから、それほど危険がなかったからさ。けど今回は違う。オレは正真正銘戦をしにいくんだ。そんな危険なとこに、あんたを連れて行くわけにはいかねぇ」
そう言って腕を組む秀吉に同調するように、周囲の家臣達もそれぞれにうなずいたりしたり顔で顎を撫でている。
そんな男達を、ほたるは険しい顔で見渡してから、改めて秀吉に向かって床に手をつき頭を下げた。
「なればなおのこと、私をお連れください。私でしたら、他の方々が行けない場所へも偵察に行けますし、相手方の陣地へ潜入することもできます。忍びはそのようにお使いいただくものと、殿ならばご存知のはず」
すると秀吉は大きく目を見開き、慌てたように上座から降りるとほたるの前に転がるように歩み寄った。そして彼女の床についた手を取り握りしめると、顔を上げたほたるの目を覗き込んで眉を怒らせた。
「んなこと出来るわけねぇだろ! あんたは忍びであるまえに、この秀吉の大事な女房だ! 愛しいあんたを敵の陣に送り込むなんざできっこねぇ、そんな危険なことさせるわけにゃあいかねぇ! いんや、絶対にさせねぇっ!」
「秀吉、殿…」
痛いほどきつく握りしめられた自分の両手と夫の顔を交互に見つめるほたるに、秀吉は肩を落として深いため息をついてからゆっくりと首を振った。
「とにかく、今回は聞き分けてくれ。おとなしくこの城を守って、オレが無事に帰るよう祈っててくれねぇか。あんたが待っててくれると思えば、オレぁなんだって出来ちまうんだから」
言いながらほたるの手を離した秀吉は、愛おしげに目を細めてほたるの髪をそっと撫でた。しかしほたるは秀吉をじっと見たまま、彼の手を逃れるように小さく首を振った。
「……嫌です。危険であればなおさら、私だけ安全なところで待っているなど絶対にいやっ!」
「ほたるっ!」
呆れたように秀吉が声を大きくすると、ほたるは唇を噛んだまま顔を上げて秀吉を睨んだ。その剣幕に思わず秀吉がたじろぐと、ほたるは秀吉の左手を掴んで胸元に引き寄せ、肩を震わせながら顔を伏せてしまった。
「……お側にいさせてください。あなたを守りたい、失いたくないんです。もう、あの時のような思いをするのは……いやなの…っ」
そう言ってすすり泣くほたるを前にしてしまっては、もはや秀吉はなにも言えなかった。なんとなれば、彼女に昔哀しい思いをさせたのは他ならぬ自分だったからだ。
しばらくほたるをじっと見つめていた秀吉は、やがて大きく肩で息をつくと、右手で彼女の頭をあやすように優しく撫でた。
「ったく……オレとしたことが、我が女房殿はたいそう頑固だっての忘れてたわ。――わかった、いいよ」
ぴくり、と肩を震わせて顔を上げたほたるの目頭の涙を、苦笑しながら指先で拭った秀吉は「ただし、片時もオレから離れねぇって約束できるならだけどな」と言って彼女の目を覗き込んだ。するとほたるはまばたきをし、彼の言葉をおうむ返しした。
「片時も秀吉殿から離れない…なら?」
「おう。戦の真っ最中は当然として、飯の時も休息の時もってこった。ああ、もちろん寝所でもずーっとだからな」
言ってにこっと笑う秀吉にほたるは頬を染めたが、すぐに眉をひそめるとずいっと身を乗り出した。
「そっ、それでは何も出来ないではないですか! 私はお役に立つためご一緒するのですよ? なのにずっと秀吉殿の側にいるだけでは、城に残るのと変わりませんっ!」
「冷てぇなぁ。さっきは、あなたの側にいたいんですって泣いてすがってきたってのに……」
「そ、そういう意味で言ったのではありませんっ! もうっ、すぐにそうやって茶化すんですから! 秀吉殿のそういうところ、嫌いですっ!」
「え? ち、ちっと待ってくれ! なぁ、嫌いなんて嘘だよな? ちっとばかり、言葉が過ぎただけだよな?」
「……」
「なぁほたるぅ、頼むからこっち向いてくれってば……」
「知りませんっ!」
「そんなこと言わねぇでくれって。謝る、謝るから! ほれ、このとおり勘弁してくれっ!」
言って秀吉は柏手を打つと、そのまま背を向けたほたるを拝むように深々と頭を垂れた。しかしほたるは軽く頬を膨らませて口を尖らせ、つんっとそっぽを向いたままだ。