「あの……兄様が一番厄介なので、特に気をつけるようにとおっしゃっていたそうです」
「私が……一番……?」
面食らってまばたきを繰り返す光秀に、ほたるは小さく「はい」とだけ答え、それから肩をすくめてため息をついた。
「信長様のお考えは、時々私にはまるでわかりません。殿方と一緒と言っても、廊下で挨拶をしたり庭園で通りすがったりするのと大差ないことですのに。親しい皆さまとお会いしてお話しするだけで、なぜ共に部屋にいてはいけないのでしょう」
言ってまたため息をつくほたるを、光秀はなおも唖然とした表情で見つめていた。やがて目を細めた光秀はほたるの顔を覗き込むように身を乗り出すと、彼女の瞳をじっと凝視した。
「あのね、桔梗。君、それは本気で言っているのかな?」
「本気…? はい、それがどうかしましたか?」
「いや……そうだね、君はそういう娘だった。では、もうひとつ聞いてみようか」
「はい?」
「この部屋には……君と私の二人だけ。こうして、互いの息がかかるくらい近くに寄り添って……どう、なにか思うところはないかな?」
言って至近距離で笑んでみせる光秀をじいと見返したほたるは、やがて所在なげに視線を落とした。
「その……少し、近いかと」
「うん、そうだね。それから? それだけしか感じない?」
「それから、あの……兄様の御髪は相変わらずお美しいなって。信長様は、私の髪は綺麗だとおっしゃってくださるけれど、兄様の御髪と比べたら全然で……どうすればそのような美しさを保てるのか、教えていただきたいと思いました」
ほたるの言葉を聞いた途端に、光秀は大きく肩を落として身を引くと、再び眉間を押さえつつため息を漏らした。
「いいよ、わかった。……君はやっぱり君のままだね。信長様も、とんだ取り越し苦労をしていらっしゃるようだ」
言われたことの意味が本当にわからないらしく、ほたるはまばたきを数度繰り返して光秀を見返した。そこで光秀はくすりと苦笑すると、肩をすくめて目を細めた。
「わからないなら、それでいいよ。ただ、君が本当に信長様をお慕いしているのがわかっただけで十分だから」
さすがにその言葉はわかったほたるは、途端にかっと顔を朱に染めてまたうつむいてしまった。耳まで赤くしている妹の様子に楽しげに笑みを浮かべた光秀は、そのまますっと立ち上がってしまった。
「さてと、それじゃあ厄介者の兄はそろそろ退散するとしようか。ではまたね、桔梗」
「え? いまいらっしゃったばかりではないですか」
立ち上がった光秀につられて立ったほたるは、慌てて光秀に駆け寄った。すると彼は不意に振り返り、ほたるの耳元に顔を寄せると小さくささやいた。
「外で女房が聞いているからこのまま話すよ。最近、奥の間での信長様のご様子に、なにか変わりはないかい? そう……たとえば、お辛そうにしているとか」
「えっ?」
思わず声を漏らしたほたるの口元を、己の袖口でそっと押さえて光秀は眉をひそめた。
「ああ、そんなに悲しまないでおくれ、桔梗。また折りをみて会いにくるからね――声は出さなくていい。うなずくか、首を振ればわかるから」
言われてほたるは小さくうなずき、すがるような目で光秀を見上げた。その心配そうな表情に光秀は苦笑し、ほたるの髪をそっと指で梳いた。
「ああ、心配しなくていい。おくつろぎの時に一番近くにいる君が気づいていないのならば、きっと大したことではないのだろうね。今日の謁見の時、少しお顔の色がすぐれないように感じただけだから……私の、取り越し苦労かもしれない」
目を伏せるほたるの髪から手を離した光秀は、彼女の肩をそっと叩いた。
「けれど信長様の一番近くにいるのは君だということを、これからも忘れないように。いまあの方になにかあったら、私の夢も、君の願いも、すべてが失われてしまう。だから……くれぐれも頼んだよ、ほたる」
視視線を落としたままうなずくほたるの肩をもう一度叩いて光秀は、すっと彼女から身を引くときびすを返して歩き出した。
「やっと得心してくれたようだね。けれどなにかあったら、遠慮せずに兄様を呼びなさい。ではね、桔梗。君も身体には気をつけるんだよ」
微笑んで言う光秀に追いすがるように足を踏み出したほたるだったが、光秀が障子を開けたところ廊下で控えていた女房の姿が目に入り、慌てて足を止めた。そして光秀の背に深々と頭を下げながら、不安げにまぶたを閉じた。