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恋患い

(1)

蒸し暑い夏が過ぎ、ようやく涼しい秋風が吹いて過ごしやすくなったと安堵していた桔梗姫の元へ来訪者があると告げたのは、城付きの見慣れた女房だった。

相手の名を聞いて「すぐに部屋にお通ししてください」と桔梗はうなずいたが、女房は困ったように眉をひそめてなかなか立ち上がらなかった。 その様子に文机から振り返った桔梗は首を傾げ「どうしたの?」と訊ねると、その女房は申し訳なさそうに視線を彷徨わせた。

「申し訳ございません。その――上様に、奥方様のお部屋には、誰であろうと気安く殿方をお通ししてはならぬと厳命されておりまして」

すると桔梗は困ったように笑んでから、改めて彼女の方に向き直った。

「それはおかしなことですね。いらっしゃるのは私の兄様ですよ? 他の殿方ならばいざ知らず、相手は兄なのですから問題はないでしょう?」

しかし女房は曇った顔で「そうなのですが……」と続け、それから深いため息をついた。

「あの兄が一番厄介であるから、特に気をつけよと。くれぐれも二人きりにはせぬようとの、厳しいお達しがございました」

それを聞いた桔梗は軽く天井を仰ぎ、それから呆れたように肩をすくめてくすりと笑った。そして困りかねている女房に向かってゆっくりうなずいてから、肩をすくめた。

「困ったお方だこと。わかりました、ではあなたは兄上をご案内してきたら、お部屋の外に控えていてくださいな。なにかあったら声を立てますから、そうしたら遠慮しないでお入りなさい。――それなら大丈夫でしょう?」

姫の提案に年若い女房は安堵したように顔を輝かせると、何度もうなずいて立ち上がった。

「奥方様さえお許しいただけるのでしたら、そのようにさせていただきます。ご兄妹水入らずのお話に割り込むようなことは出来ないし、と言って、上様のご命令も無視できず、どうすればよいかと思案しておりましたので」

ほっとしたのか、女房はにこりと笑って立ったまま頭を下げたが、桔梗はその無礼を咎めず「手間を取らせますね。では、兄様をお通しして差し上げて」と告げて微笑んだ。

「はいっ! すぐに!」

奥の間の障子を開け放したまま、小走りで遠ざかっていく女房の様子に桔梗は目を丸くしたが、すぐにくすりと笑って口元を袂で隠した。

「あらあら。あんなに走って、目上の方達に怒られないといいのだけれど……」

そんな桔梗の心配は見事的中し、来客を待たせたままの控えの間に辿り着く前に、古参の女房に見つかった娘は、しこたま怒られて足止めされてしまった結果、来訪者はかなりの時間を待たされることになってしまった。

 

「まったく――今日はあそこで夜を明かすことになるかと思ったよ」

「それは大げさですよ、兄様。でも、お待たせしてしまって申し訳ありません」

額を押さえて眉間にしわを寄せる表向きの兄=明智光秀に対し、ほたるは困ったように笑って軽く頭を下げた。

「なにやらお達しがあったようなのです。その――私の部屋に殿方を通してはならぬと信長様が……」

言って首を傾げながら微笑む表向きの妹に、額に手を当てたまま視線を向けた光秀は、怪訝そうに目を細めた。

「へぇ……けれど私は君の兄なのだよ? しつこくまとまりついていた秀吉や、真面目なようで実はかなり油断のならない蘭丸ならばともかく、妹のご機嫌伺いに兄が部屋を訪ねるのは、おかしなことではないと思うのだけれどね」

「ええ、私もそう思います。けれど信長様は……」

光秀の言葉にうなずいたほたるだったが、先ほど女房に聞いたことをそのまま伝えてよいものかどうか、急に心配になって語尾を濁した。だが光秀は、それを曖昧に流すような質ではなかったので、急に黙って視線を落としたほたるをじっと見つめて口を開いた。

「そこで止められると、余計に気になるのだけれど。どうしたんだい、桔梗? 信長様は私について、なんとおっしゃっていたのかな?」

声音は涼しげで穏やかなのだが、光秀から発せられる気配から「本当のことを言わなければ……さて、どうしてあげようか」という圧力を感じて、ほたるは軽く息を飲むと恐る恐る目を上げて光秀の微笑みを見つめた。