デジタル時計が8時57分と表示した頃には、かなでは明日の準備もすっかり終らせていて、携帯電話を枕元に置いてベッドに腰かけると、ちらちらと携帯に目を向けながら裸足の足を揺らした。やがて9時を2分ほど過ぎたところで携帯が軽やかなメロディを鳴らし始め、かなでは慌てて手を伸ばすともどかしげに受信ボタンを押した。
「もっ、もしもしっ!」
身を乗り出すように声を出すと、電話の向こうで驚いたように息を飲む気配がした。そこでかなでは興奮しすぎている自分に気づいて顔を赤らめ、少し間を置いてから「……火積くん、だよね?」と小さくささやいた。
『ああ。……なんかしてたか? 悪い』
「ううん、違うの。あの、お昼にメールくれたでしょう?」
『……ああ』
「それからね、ずっと嬉しくて楽しみで。夕飯もお風呂も早めに済ませたし、明日の用意も全部終らせて、まだかなーって携帯持って待っていたところだったの。でもいざ電話が来たから、なんかどきどきしてつい焦っちゃって。……うーっ、恥ずかしいっ」
言いながら眉をひそめるかなでの耳元に、やがて無音だった携帯からため息のような音が漏れてきた。
『……あんたは……ったく』
「え? な、なに?」
慌てて携帯を両手で握り直しながら問うと、電話の向こうの火積司郎は何かを誤魔化すように小さく咳払いをした。
『いや……なんでもねぇ』
「えーっ。火積くん、気になるよ。教えて!」
『本当になんでもねぇから……気にすんな』
かなでの焦りっぷりを聞いて逆に余裕ができたのか、火積の声には微かな笑みが含まれている。それがちょっと面白くなくて、かなでは携帯電話を握ったまま唇を尖らせた。するとその気配を察したのか、火積の苦笑が彼女の耳に響いた。
『なんつうか……あんたの声を聞くたびに舞い上がっちまうのは、俺も同じってことだ』
「え…」
『電話すんの初めてってわけじゃねぇのに、昼間っからどうにも落ち着かなかった。挙げ句、いざ電話するって時になったら、手に汗かいちまうしよ。……なに、浮かれてんだか……』
電話越しでかなでの顔が見えない分、照れが薄らいでいるのだろうか。今までだったら聞けないような事をさらりと告げられたかなでの顔が、瞬時に真っ赤になったことに気がつかない火積は、もう一度小さく笑ってゆっくりと言葉を続けた。
『小日向…聞こえてるか?』
「あ……う、うん! なに?」
『その……来週の日曜なんだが、ちっとばかし時間、作れねぇか?』
「え、来週?」
意外な言葉に、かなではおうむ返しに声を発した。すると電話の向こうから火積の小さな咳払いが聞こえ、次いで照れくさそうな声音が響いて来た。
『うちの八木沢部長、星奏大学も受験候補のひとつにしてんだ。そんで改めて見学に行くことにしたらしいんだが……なんか俺も、一緒に見学に行くことになってよ』
「ど、どうして?」
『それが俺にもよくわかんねぇんだが……来年は火積も受験生だから、今から色々な大学を見学しておいた方が良いとかなんとか、そんな話をしてたら、その流れっつうか……』
そうして八木沢雪広が有無を言わさぬ笑顔を火積に向けたところで、遅れて部室に入って来た後輩の水嶋新が「それならオレも行きたい?! 再来年の為に!」などと話に加わってきて、気がつくと狩野航と伊織浩平も一緒に横浜に繰り出すことに決まってしまったのだと。
そう困惑気味に話す火積の声を聞いているうちに、かなでは落ち着きを取り戻し笑った。
「そうなんだ。皆さんに会うの、久しぶりだからすごく嬉しい」
『じゃ…』
電話の向こうの火積に、かなではにこりと微笑みかけてうなずいた。
「うん、大丈夫。来週の日曜日、楽しみにしてるね」
『そうか…』
火積のほっとしたような声に、かなではまた小さく笑った。だが火積は無言を返して来たので、不思議に思ったかなでは、ほんの少し眉間にしわを寄せると「火積くん?」とそっと呼びかけてみた。すると電話の向こうで小さく息を飲む気配がし、やがて躊躇うような声がかなでの耳に流れ込んだ。
『その…悪い』
「え…?」
『せっかくあんたに会うってのに、余計な奴らまで一緒で……いや、ぶ、部長はいいんだが!』
慌てて付け加える火積の声に、かなではほんのり頬を染めた。口では「みんなに会えるのは嬉しい」と言ったが、本当の本音は「でも、やっぱり火積くんと二人っきりがよかったな」だったからだ。 だから火積が同じように思っていてくれたことが嬉しくて、かなでの頬につい笑みが浮かんだ。
『……どうした?』
「うん…ううん、なんでもない」
軽く首を振ると、かなでは彼の声を確かめるように携帯電話を握り直した。
「私、火積くんに会えるだけでいい。本当に、顔を見れるだけですごく嬉しいの」
『小日向…』
告白してから二ヶ月経って、それなりにメールや電話をして恋人同士らしくなってきたというのに、かなでからのアプローチにはまだ慣れないらしい火積の様子と態度に、かなでは幸せそうにくすっと笑った。