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憂鬱な三日間

(8)

「そんなことがあったのか。でもとりあえず、小日向さんが食べる意欲を取り戻してくれたようでよかったよ」

言いながら椅子に座り直す八木沢を軽く睨むと、東金は眉をひそめて自分の頭を掻いた。

「よくねぇよ。小日向の奴、人の金でケーキ食いながら火積の話しかしないんだぜ? 挙げ句、どういうところが好きだの、ああいうところが優しいだのと、延々惚気を聞かされてたんだ。こっちはたまったもんじゃねぇ」

「それは……ご苦労様だったね、千秋」

心底うんざりした表情を浮かべる東金をまじまじと見た八木沢は、いちおう労いの言葉をかけたものの、我慢しきれずに肩を震わせて笑い出した。

『神南高校の東金千秋』といえば、地元の神戸でもかなり名が知られている。学内にも女子生徒による大規模なファンクラブが存在し、最近ではここ横浜でも俄ファンクラブが結成されたらしいという噂も聞いた。 そんな、いわば「王子様」的存在である東金に食事を奢らせただけでもすごいのに、あろうことか他の男子生徒との「恋の悩み相談」をしてしまうかなでは、もしかしなくてもかなりの大人物というか、強心臓の持ち主だと思ったからだ。

そしてそれに律儀に付き合ってしまうのだから、考えてみれば東金も、ずいぶんお人好しだ。

「……おい、ユキ。なにがそんなにおかしい?」

八木沢が顔を背けて笑っている姿に、東金はむっと顔をしかめた。その表情が幼い頃の拗ねた顔から全く変わっていなくて、八木沢はまた笑いがこみ上げてきた。

「ご……ごめん、千秋。でもそ、そんな顔をされると……わ、笑いが治まらない、よ」

「はぁ? お前、たいがい失礼な奴やな」

「ご、ごめん……ん……も、もう大丈夫だからっ」

「言うて、まだ笑うてるやん」

腕を組んで睨む東金の刺すような視線を平然と浴びつつ、八木沢は軽い咳払いを何度かして、ようやく呼吸を整えた。そして顔を正面に戻すと「ごめん、悪かったよ」ともう一度謝り、ほんの少しだけ表情を引き締めた。

「そうだ、笑っている場合じゃなかった。せっかく君が、火積たちの心配をして相談にきてくれたっていうのに」

さらりと言って東金を見ると、彼は戸惑ったような表情を浮かべていた。だがすぐに眉をひそめて視線を八木沢から外すと、熱を持ったらしい頬を軽く指で掻いた。

「別にお前んとこのガキはどうでもいい、問題は小日向だ。せっかく見つけた逸材を、こんなくだらねぇことで自滅させるわけにいかないんだよ」

「確かにね……僕だって火積が、このことでまた自暴自棄になるのを見るのは忍びないよ。これ以上あいつを刺激する出来事が、起きなければいいんだけど」

「いや、違うな。ああいう奴らは、少々刺激を与えてやった方がいい」

そのまさに「刺激するようなこと」をさきほど起こした東金がそう言うと、八木沢はびくりと肩を震わせた。

「千秋。君、まさか……っ!」

驚く八木沢に東金はまたにやりと笑ってみせると、かなでとの帰り道で起こった出来事を総て漏らさず彼に話した。そして呆れたようにぽかんと口を開けている八木沢に対して、目を細めた。

「俺に飛びかかってくるくらいの気概はあるかと思ったんだが、とんだ肩すかしだったぜ」

「それは……火積の中では去年の出来事が、まだくすぶっているんだと思う」

「去年……ああ例の暴力事件か」

東金の言葉に、八木沢はゆっくりとうなずいた。そしてため息をつくと、眉をひそめて額を右手で押さえた。

「たぶん火積はまだ、自分という存在を彼女が受け入れていることに抵抗があるんだろう。だから小日向さんを突き放すようなことをして……逆に彼女を守ろうとしているのかもしれない」

「不良というレッテルを貼られた自分が側にいたら、小日向に迷惑をかける……なんて思ってるってことか?」

「うん……あくまで推測だけど」

八木沢がまたうなずくのを見つめていた東金は、やがて大きく息を吐きながら肩をすくめた。

「はっ、くだらねぇ。周りがどう言おうが、惚れた女がいいと言ってくれてるんだ。わざわざ突き放す必要が、いったいどこにある?」

「それは、千秋が強いから言えるんだよ。それに君なら名声や立場からいって、誰からも後ろ指を指されず堂々と小日向さんの側にいられる……たぶん火積は、そう思ったんじゃないかな」

「馬鹿馬鹿しい、それこそ小日向に対する冒涜だろう。あいつがそんな上っ面に引っかかるような女だったら、最初から俺に近づいてくるだろうが。いや、それ以前にそんな頭が回るような奴だったら、俺に他の男の惚気聞かせるなんて間抜けなことするかよ」

「ははっ、まったくだね」

東金の憤慨したような物言いに、八木沢はわずかに表情をゆるめた。

「火積は優しいから、自分の感情よりもまず相手のことを考えてしまう。自分が側にいると迷惑をかけるんじゃないか、いやな思いをさせるんじゃないかって、そういうことが先にきてしまうんだ。……その相手が、好きであればあるほどに、ね」

「……ったく、暗い野郎だな」

「優しすぎるってだけのことだよ」

東金の苦言に八木沢は苦笑すると、顎に親指を添えて考え込むような表情を浮かべたが、やがて顔を上げると東金を真っ直ぐに見つめた。

「千秋、君もソロを控えて忙しいのはわかっている。けれどもう少しだけ、力を貸してくれないか? このままじゃ火積だけじゃない、小日向さんのファイナルにも影響が出かねない」

すると東金は間髪入れずに軽くうなずき、口元に微かな笑みを浮かべた。

「言ったろ、俺は切り替えが上手いって。だいたい愚痴を聞かせるためだけに、わざわざここにきたと思うのか? 最初からお前の手を貸りるつもりに決まってる」

「千秋……」

「ただし、俺の場合は小日向さえ本調子になれば、結果くっつこうが別れようがかまわねぇ。俺たちに勝ってファイナルに進んでおきながら、こんなくだらねぇことで調子を崩して、天音に負けられたんじゃたまったものじゃないってだけだ。さすがはあの神南を下した奴らだと思わせるような演奏をしてもらわなければ、俺たちの沽券にも関わる」

いつもの東金らしい言い草だが、話すその表情はどこか穏やかで、かなでへの気遣いや優しさが感じられた。

それが自分の思いと重なるような気がして、八木沢もまた穏やかな笑みを浮かべ「うん、そうだね」と、ただひと言だけで答えた。