扉をノックする音と聞き慣れた声に呼ばれ、八木沢は参考書から顔を上げた。立ち上がり扉を開けると、そこには最近久しぶりに会った幼なじみが立っていた。
「珍しいね。千秋がわざわざ僕の部屋に来るなんて」
「ラウンジで声をかけてくれてもよかったのに」と続けながら招き入れると、東金は部屋の中をきょろきょろと見回し、机の上に伏せられた参考書に目を細めた。
「相変わらず真面目だな。高校最後の夏休みだぜ、こっちにいる間くらい羽目をはずしてもいいだろうに」
「ははっ、十分楽しませてもらってるよ。本当なら、僕らはもうここにはいないはずだからね」
笑ってぱたんと扉を閉じる八木沢の背を、さっさとベッドの上に腰掛けた東金は口元に笑みを浮かべながら睨んだ。
「それは、あいつらに負けた俺に対する嫌味か?」
「まさか。それに千秋は、まだソロがあるじゃないか。君の方こそ、のんびりしていていいのかい?」
「心配するな。俺は練習と休息の差はきっちりつけてる、抜かりはねぇよ」
「そうだったね」
自信ありげな幼なじみに、八木沢は目を細めた。久しぶりに会ったが、相変わらずこの男は『東金千秋』のままだ。 八木沢は机の前の椅子をゆっくり動かして腰掛けると、くるりと座面を回して東金に向き直った。
「それじゃあ話を聞こうか。ラウンジでは話せないようなことなのかい?」
「俺は話したってかまわねぇんだが……小日向が気にすると思ってな」
「小日向さんが?」
意外な名前が東金の口から漏れて、八木沢は驚いたように目を見開いた。すると東金はベッドに腰掛けたまま足を組み、八木沢を軽く睨んだ。
「ああ。それからお前んとこの、クソ生意気そうな赤毛の二年もな」
「……火積のことかい?」
呟く八木沢の表情は途端に険しくなったが、東金をしばらく見つめた後、その顔は困ったような笑みに変化し、その口元からは微かなため息が溢れた。
「ああ……そういうことか」
「やっぱりな。お前は気づいてると思ってたぜ」
満足げに東金が零すと、八木沢は眉を眉間に寄せて頬をわずかに赤らめて視線を逸らした。
「うん、いや……三日ほど前に、小日向さんに泣かれちゃってね……」
八木沢の口から出た思いがけない告白に、東金は目を見張った。
「へぇ。女を泣かせるなんてやるじゃねぇか、ユキ」
「ちっ、違うんだ! たぶん、火積と何かあった直後だと思うんだけど、配膳室でぶつかってしまったんだよ。そうしたら彼女、床に尻餅をついた途端に泣き出してしまって……」
「……」
「どこか痛むのかって訊いたんだけど、ただ首を振って泣くばかりで……それでも心配させまいと思ったんだろうね。ごめんなさい違うんですって、僕に何度も謝ってた。それからやっと立てるようになった彼女を、支倉さんが部屋まで連れて行ってくれたんだけどね。結局、そのすぐ前に話していた皆で花火をするっていうのも、なしくずしになってしまったんだ。まぁそれは、この際どうでもいいんだけれど……」
「……なるほどな」
組んだ膝の上に肘を乗せて頬杖をついていた東金は、八木沢の言葉を聞くと手を降ろして肩をすくめた。
「それから今日まで、無意識のハンストやってたってわけか。はっ、呆れた奴だ」
「は、ハンストって……た、大変じゃないかっ!」
驚いて立ち上がった八木沢を見上げ、東金は口元に笑みを浮かべた。
「ああ。心配ない、そいつは今日解除させた。しかし、よくもあれだけの生クリームやら果物やらを、次から次へ空きっ腹に詰め込めるもんだ。そっちの方がよっぽど驚いたぜ」
「……え?」
拳を握りしめたまま首を傾げる八木沢の前で、東金は軽いため息をつきながら首をすくめた。
「俺との練習中、小日向の奴、立ちくらみを起こしてな。訊けばここんところくに飯を食ってないっていうから、飯が入らないなら、ケーキでも何でもいい好きなもの食わせてやるって言ったんだよ。そしたらあいつ、途端に嬉しそうに笑いやがった」
言って東金は、かなでから聞かされた火積とのやりとりをかいつまんで八木沢に伝えた。八木沢はきゅうっと唇を引き結んだまま黙って東金の話を聞き終えると、ほっと息を吐いてからようやく口を開いた。