ケーキでお腹を満たしたからか、あるいは最後は東金がうんざりした表情を浮かべるくらい悩みを吐きだしたからか、駅前の喫茶店を出てからのかなではすこぶる上機嫌だった。
「東金さん、今日は本当にほんっとうにありがとうございました!」
「ああ。だが次に俺を誘うときは、ちゃんと俺を満足させろよ?」
「え? えっと……あの、それは、どういう……」
不安げな表情を浮かべて隣の東金を見ると、彼はふんっと鼻を鳴らしてかなでを睨んだ。
「決まってる、俺の演奏と対等以上に渡り合える音を聴かせろってことだ」
「あ……そ、そういうことですか。はいっ、約束します!」
ほっとした後で頬を少し染めながらかなでがうなずくと、東金は怪訝そうに片眉を上げた。だが、すぐに口角をきゅっと持ち上げると、かなでの顔を覗き込んだ。
「ん? お前、なにか別の期待をしたのか?」
「しっ……してませんっ!」
「本当か?」
「もうっ! しつこいですよっ!」
問いつめられ、どうやら図星だったらしいかなでがぷいっとそっぽを向くと、東金は上体を起こして楽しそうにくくっと声を漏らした。
「ははっ。馬鹿、冗談だ。奢らせておきながら他の男の惚気を聞かせるような奴、誰が手を出すか」
「……ううっ。東金さん、意地悪ですっ!」
赤らめた頬を更に膨らませるかなでの横顔を見おろしながら、東金は目を細めた。だがふと行く先に気配を感じてかなでから視線を移したのだが、急に表情を引き締めたかと思うと、まだ顔を背けているかなでの華奢な肩に両手を回して自分の方を向き直らせた。
「きゃっ!」
いきなりぐるりと身体を回されたかなでは、バランスを崩して思わず東金にしがみついた。そして彼を見上げると、怪訝そうな表情を浮かべた。
「と、東金さん?」
すると東金はかなでの髪に右手を添え、彼女を見おろしながら口元に意地悪げな笑みを浮かべた。
「いや。いま、お前の髪の中に、でかい虫が入るのが見えてな」
「ひゃあっ!?」
東金の言葉にかなでは当然のように悲鳴を上げ、彼にまたしがみついた。
「やだやだやだっ! は、早く取ってくださいっっ!!」
「わかってるから、そう動くなって……んー、なかなか見あたらねぇなぁ……」
「と、東金さぁん……っ」
涙声でますますしがみついてくるかなでの様子に、東金は楽しそうに笑いながら彼女の髪を撫で続けた。そして時折ちらりちらりと勝ち誇ったような視線を、菩提樹寮の門の前に送っていた。東金とかなでの抱擁する様子を見つけ、立ち尽くす火積に対して。
しばらく火積は、まるで時間が止まったように固まっていた。だが苦々しげに眉をひそめると視線を逸らし、二人から逃げるように反対方向へ足早に立ち去った。
火積の背中がかなり遠ざかったのを見届けてから、東金はようやくかなでの髪から手を離し、彼のシャツをつかんで震えている彼女の頭をぽんと軽く叩いた。
「ほら、取れたぞ小日向。虫だと思ったが、ただの糸くずだったぜ」
「い、糸ですか?」
恐る恐る顔を上げるかなでに、東金はにっと笑ってみせながら彼女の身体を解放した。
「ああ。丸まっていたから虫に見えたんだな」
「よ……よかったっ」
心底安堵したように深いため息をつくかなでに、東金はもう一度笑った。どうやら彼女は一部始終を火積に見られていて、しかも東金が彼が誤解するよう意図的に仕向けていたことにはまったく気がついていないようだ。
「さてな。本当によかったってなるのは……あっちの出方次第だろ」
「? 東金さん?」
「当たり前だと思っていたことが、実は当たり前じゃない。そう気がつくには、少しばかりの刺激も必要ってことだ」
「えっと……ど、どういうことですか?」
不思議そうに小首をかしげるかなでの頭をくしゃくしゃとかき回した東金は、首をすくめる彼女をその場に残し菩提樹寮の門へ向かって歩き出した。