ヴァイオリンアイコン

憂鬱な三日間

(5)

――火積くんと口をきかなくなって……何日経ったんだろう。

実際には三日ほどしか経っていないのだが、かなでにはそれが何ヶ月にも思えて、朝起きてから何度もため息をついている。

そんな風にぼおっとした表情で、機械的に弦を動かすかなでを、東金千秋は先ほどから睨みつけていた。

だがかなではその視線には全く気がつかない様子で、相変わらず気のない演奏を続けている。やがてしびれを切らした東金は弾くのを止めると苦々しげに舌打ちし、改めてかなでを一瞥して口を開いた。

「お前――いい加減にしろよ」

「……えっ?」

「なんだその演奏は。地味子に逆戻りどころか、それ以下じゃねぇか」

困惑した目でヴァイオリン越しに東金を見つめ返したが、彼は相変わらず冷めた目で彼女を睨んでいた。

「わざわざ俺を呼び出して付き合わせて、そんな陳腐な音を聴かせるとはな。お前、俺を馬鹿にしてるのか?」

「ご、ごめんなさい」

「謝るってことは、自分の演奏が酷いって自覚はあるわけだ。なら、なおさら始末が悪いな」

東金の言葉に、かなではただ下唇をかみしめることしか出来なかった。ヴァイオリンを降ろしてうつむくとその拍子に涙がこぼれ落ちそうになって、かなでは慌てて空を見上げるように顔を上げた。

すると険しい顔を浮かべていた東金の表情に、少しだけ戸惑いの色が滲んだ。だがすぐに、なにか悟ったように口元に微かな笑みを浮かべてから、大げさに肩をすくめた。

「とにかく、今日の練習はやめだ。気が乗らねぇ」

「あ、あのっ本当にごめんなさい。これからちゃんとしますから、もう少しだけ……」

「無駄だな。普段はぼやっとしてるくせに、楽器を持つと別人のように輝くのがお前の持ち味だ。だが、今のお前からはそれが微塵も感じられない。普段のボケ状態より酷いぜ、最悪だ」

「……ひどい」

「泣き言を言いたいのはこっちだ。貴重な時間を、こんなくだらねぇ音を聴かされるために使っちまったんだからな」

言いたい放題言われて、さすがにかなでは頭にきたらしい。むうっと頬を膨らませると、片づけを始めた東金の後ろ姿を睨みつけた。すると東金はくるりと振り返ったので、焦ったかなでは思わず数歩後ろに下がったのだが、その途端、足元から力が抜けたようにくらりと身体を傾がせた。

「おい、小日向っ!」

さすがに驚いた東金は腕を伸ばすと、地面に座り込みそうになったかなでの両腕をつかんで自分の方に引き寄せた。そして彼女の背を右手で支え、安堵の息を漏らした。

「大丈夫か?」

東金以上に驚いたらしいかなでは、しばらく彼にしがみついたままぼんやりと地面に視線を向けていた。やがてこくりと小さくうなずき、ゆっくりと東金の身体を押しやるようにして一歩後ろに下がった。

「はい、大丈夫です……えっと、あの……あ、ありがとうございました」

顔を赤らめた途端にかなでのお腹が「クウッ…」と小さく鳴り、二人はまた押し黙った。しかし次の瞬間、東金はやや垂れ気味の目をゆがめると笑いだした。

そんな彼を前にして、かなでは更に顔を赤らめ同じように口元に両手を添えた。

「そ、そんな笑わないでくださいっ!」

「くっ……くっく。わ、笑うだろう、普通。ハラが減って立ちくらみ起こすとか、ありえねぇ!」

「だ、だってっ……ここんとこ食欲がなくて、今日もお昼、全然食べられなかったから……」

「それでまともに弦すら動かせなかったってわけか! ほんとに馬鹿だな、お前は!」

「うっ……そ、そこまで言うことないじゃないですか」

「馬鹿で悪けりゃ阿呆だ。自分の体調管理もでけへんなんて、演奏家以前に高校生としてもアホ過ぎやろ!」

東金の口からさらりと漏れた関西弁がまた余計に恨めしく聞こえて、かなでは顔を真っ赤に染めたまま拳を握りしめた。

「もうっ! 東金さん笑い過ぎですっ!」

「笑うなって言われても無理だ。大体だな、地味子のくせに生意気に恋煩いとかしてんじゃねぇよ」

びくりと全身を震わせたかなでは、驚きで見開いた目を東金に向けた。すると彼はまたくくっと楽しそうに笑い、彼女を目を細めて見つめた。

「図星か? 今さら夏バテだなんて見え透いた言い訳はするなよ?」

まさにその言いわけをしようとしていたかなでは、慌ててまた口元を手で覆うと顔全体を真っ赤に染め、やがて潤んだ目を東金に向けながらゆっくりと口を開いた。

「あ、あのっ……ど、どうして、わかったんですか?」

「どうしてだと? お前、俺が神戸に来いと言ったのを忘れたのか?」

「わ、忘れてはいませんけど……でも、それはきちんとお断りしましたし」

「だが、俺は諦めるとは言っていないぜ?」

「と、東金さん!」

「まぁ、それは今はいい。俺が言いたいのはセミファイナルからこっち、俺はお前をいつも観察してたって事だ」

驚いたように目を見張るかなでの前で、東金はようやく笑いが治まってきたらしい。改めてかなでに鋭い視線を向けながら口を開いた。

「スカウトした人間がどれだけ成長するか、今後の伸び代がどれだけあるかを分析し、見続けるのは当然だろう。そうしたら詳しい経緯まではわからねぇが、お前とユキんとこの生意気な二年が、どうも上手くいってなさそうだって察しがついたってわけだ」

そこまで自分の言動はわかりやすかったのだろうかと、かなでは両手で熱を持つ頬を押さえながら視線を落とした。

「しかし、食事も咽喉を通らないほど重症だったとはな。さすがにそこまで本気だとは気がつかなかったぜ」

言いながら顎を撫でる東金を、かなでは救いを求めるようにただ見つめるしかなかった。が、次の瞬間、東金が彼女に視線を戻してにやりと笑いながら告げた言葉に、今度は全身を赤く染めた。

「ああ。ちなみに教えといてやるが、お前らのこと気がついてるのは、俺だけじゃないぜ」

「え…?」

「お前ら二人以外、たぶん全員知ってるんじゃねぇか。ま、こじれてそうだって思ってる奴は、そう多くなさそうだが」

「ええっ!?」

まさに飛び上がったかなでの様子に、東金が驚いたように目を見開いた。

「なんだ、あれで隠してるつもりだったのか? だとしたら、隠し事にはまったく向いてないぞ、お前」

「う、ううっっ……は、はずかしすぎるぅっ……」

立ちくらみではなくへなへなとその場に崩れ落ちるかなでを、今度は東金は助けなかった。熟れた林檎のような頬を両手で押さえて唸るかなでを、しばらく面白そうに観察していた東金は、やがて小さくため息をついてから彼女の手首を握ってひょいと持ち上げた。

「とりあえず、少しはまともな音を出せるくらいにはなってもらわねぇとな……ほら、行くぞ」

「え……ど、どこへですか?」

「なに寝惚けてる、腹ごしらえに決まってるだろう。ランチというには遅いから……お前の好きなケーキ、なんでもおごってやるから好きなだけ食え」

「ケ、ケーキ!?」

東金の言葉に、かなでは弾かれたように真っ赤な顔を上げた。その瞳は久しぶりに輝いていて、東金は一瞬驚いたように目を剥いたが、すぐにやや垂れ気味の目尻に呆れたような笑みを浮かべた。

「はっ、途端に元気になりやがって。現金な奴だぜ」