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恋の発車 all right!

(8)

もちろんかなでのことは信じているし、いまの台詞だって、相手が火積だから出たのだと信じている。 いや、信じたい。

だがこれから数ヶ月も経てば、側に居ない男よりも、いつも身近にいて優しくしてくれる相手に情が移ってしまうことだって十分あり得る。そこまで悶々と考えて、火積は我に返るとため息をこぼした。

「……馬鹿か、俺は。信じてるとか偉そうに言っといて、けど心配だとか抜かしやがって。結局、あいつのこと全然信じてねぇってことじゃねぇか」

頭を掻きむしりながら眉をひそめてがっくりと頭をたれた火積の姿を、ちょうどキッチンから出てきたかなでが見つけて、驚いたように目を見開いた。

「火積くん? ど、どうしたの?」

ゆっくり顔を上げた火積は、かなでのほうへ顔を向けて目を細めた。

「あんたこそ、どうした? もうメシが炊けたのか?」

「ううん。まだ10分くらいかかるから、その間に着替えちゃおうかと思って…」

言って首をかしげて笑ったかなでは、祝賀会場からずっと着たままだったパールホワイトのドレスを見おろした。

「帰ってきてすぐ着替えちゃえばよかったんだけど、時間が惜しかったから。汚さなくて良かった」

「そう…だな」

目を細めて自分を見る火積の様子に、かなでは不思議そうに首をかしげたが、すぐにきびすを返して肩越しに振り返った。

「じゃあ、少しだけ任せていいかな? ご鈑が炊き上がるまでには着替えられると思うから」

「ああ……」

火積がつぶやいて軽くうなずくのを確認したかなでは、にこりと微笑んで背を向けた。

「なあ、小日向……」

「なぁに?」

立ち止まって振り返ったかなでは、火積がじっと自分を見つめていることに気がついてまばたきを繰り返した。だが火積はなおもじっと見つめているので、その視線にほんのり頬を染めた。すると火積ははっとしたように肩を震わせ、かなでから視線を外して眉をひそめた。

「いや……なんでもねぇ」

つぶやいて顔を背けたまま「すまねぇ……行ってくれ」と告げると、左手を軽く振ってみせた。

その態度に眉をひそめたかなでは、自室とは逆方向に身体を向けると、すたすたと食堂の椅子に座る火積の目の前に歩み寄って立ち止まった。そして上体を屈め、そっぽを向く火積の顔を覗き込んだ。

「言いたいことがあるならちゃんと言って。もうすぐ……会えなくなっちゃうんだから」

「こ、小日向……」

いきなり間近に接近されて、火積は目を白黒させた。 だがかなでは視線を逸らすのを許さないように、彼を睨むようにしてじっと見つめ返している。 やがてその目元が僅かにゆるんだかと思うと、かなでは下唇をぎゅっと噛みしめて泣き出しそうな表情を浮かべた。

「会えなく、なっちゃうんだよ。……火積くんと練習したり、火積くんとお弁当食べたり……火積くんと、お買い物したり…、火積くんと宿題したり、お祭りに行ったり……そういうの、全部……出来なくなっちゃうん、だからっ」

「……そう、だな」

「きゃっ!」

かなでが小さな悲鳴を上げたのは、火積が近寄ってきたかなでの両の手首を掴んだかと思うと、自分の方へ引き寄せるように引っ張ったからだ。そうしてかなでを抱きとめた火積は、彼女の華奢な身体をぎゅっと抱きしめて唇を噛み締めた。

「言いたいことがあるなら言えって……言ったよな?」

「……うん」

小さくうなずいたかなでは、火積の膝の上にそっと腰を下ろして彼の背に腕を回した。自分の背中に廻りきらないかなでの細い腕の意外な力強さに火積は微笑むと、彼女の足りない分を補うように自分の手に力を込めた。

「……好きだ」

ぴくり、とかなでの肩が火積の腕の中で震えた。そうしてかなでが顔を上げようともぞもぞと動いたが、いつも以上に赤くなっているであろう顔を見られたくなくて、火積は廻した両腕に更に力を込め、彼女の動きを封じた。

「俺はあんたが好きだ。だから誰にも渡したくねぇし、離れたくもねぇ。このまんま仙台に連れて帰っちまいてぇ」

「……無理だよ」

腕の中でかなでが困ったように笑うと、火積も小さな笑い声を漏らした。

「んなこたぁわかってる……言いたいことを言えっつうから、言ってみただけだ」

火積の言葉に、かなでは驚いたように目を見開いた。が、すぐにまた目を細めると、火積にぎゅっとしがみついた。

「火積くん、あのね……」

小さくつぶやいてからゆっくり顔を上げたかなでは、同じように顔を赤く染めている火積を見つめた。そして恥ずかしそうだが、しっかりと唇を動かした。

「私も……好き。火積くんが、好き。……ずっと、一緒にいたいよ」

「……小日向」

吸い寄せられるようにお互いに顔を近づけて、そっと目を閉じたところで、甘い雰囲気をぶち壊すような甲高い音かキッチンから響いてきた。 驚いて同時に目を開けた二人は、揃ってキッチンの方へ顔を向けた。そしていつもよりもはるかに険しい表情でキッチンを睨む火積の膝の上に座ったまま、かなでは小さく叫んだ。

「あ! お湯っ!」

怪訝そうに目をすがめる火積を見上げ、かなでは口を開いた。

「お弁当にはお茶が付き物でしょ? だからお茶を入れようと……おも……って……」

辺りに鳴り響く甲高い笛の音の説明を始めたかなでだったのだが、おかしなことに語尾になるにつれて小声になり、しまいには口をつぐんで恥ずかしそうに顔を伏せてもじもじし始めた。

怪訝に思った火積が首をかしげると、かなではちらりと火積を上目遣いに見上げた。

「火積くん……あの…」

言われて視線を落とした火積は、自分がかなでを膝に乗せて腰に腕を廻していることにようやく気がつき、慌てて手を離すと両腕を肩まで上げた。

「おわっ!? わっ、悪いっっ!!」

「う、ううんっ」

小さく首を振ったかなでが立ち上がると、火積も慌てて立ち上がり、真っ赤な顔を逸らしてキッチンへと足早に向かった。

「ち、茶の用意は俺がしておく。だからあんたは、その間に着替えてこい」

「え、でも…」

「いいから行け……つうか、頼むから行ってくれ。今すぐはあんたの顔、まともに見られねぇからっ……」

言ってキッチンに入った火積の耳は後ろから見てもわかるほど真っ赤で、そんな彼の背中を見送ったかなでも、先ほどのことを思い出した途端に身体中が火照ってきたのか、真っ赤な頬に両手を添えると、くるりときびすを返して女子寮の方へ向かって走り出した。