「……ごめんね」
ゆっくり歩きながら、時折ため息をつく氷渡を、ちらちらと見ながら隣を歩くかなでは、やがて蚊の鳴くような声を漏らした。
「七海くんと約束していたんでしょ? 私、邪魔しちゃったみたいで……ごめんなさい」
言ってしゅんとしょげるかなでの様子に、氷渡はちらと目を向けてから困惑したように目を逸らせた。やがて被っているニット帽をほんの少し額の方へ引っ張ると、空いている左手を動かしてかなでの右の手を掴んだ。
「別に、謝られるほどのことじゃねぇよ。約束っつっても、あいつん家にメシ食いに行くだけだし……」
ぼそりと言ってかなでの手を引き、指の間に自分の指を滑り込ませると、かなでもまた無言できゅっと握り返してきた。そのまましばらく歩いていると、前を向いている氷渡の口が少し開いた。
「――この前どうしても出せない音があるっていうから、少しばかり練習に付き合ってやったんだ。技術的にはなんの問題もないってのに、一度苦手だと思うと、途端に上手く弾けなくなるらしい」
「七海くんらしいかも……本当はすごく上手いのに、下手だからやめるって思い詰めてたこともあったものね」
「ああ。どうにも度胸がねぇっつうか、自身がなさすぎなんだよな。だから似たような楽譜で一度弾いてみろ、それからなにも考えないで元の楽譜を始めから流してみなって言ったら、つっかえてた箇所も難なく弾きやがった」
「俺にはとても出せない、そりゃあ綺麗な音でさ…」とやや自重気味に呟く氷渡の横顔に目を向けたかなでは、繋いだ手をまた握り返した。
「私は氷渡くんのチェロ、大好きよ。温かくて優しい音に包まれてるみたいで……聞いてるとすごく安心できるの」
「そりゃあお前に聴かせる時は、きっちり想いを込めてるからな。もちろん技術だって、七海に負けねぇくらい磨いてるつもりだが……どうしたって凡人と天才じゃ、勝負になりゃしねぇ」
「氷渡くん……」
思い詰めたようなかなでの声に、氷渡ははっとして彼女の方へ顔を向けた。そして目を細めて軽く微笑むと、かなでの手を握り返した。
「んな顔しなくても大丈夫だぜ。前の俺ならきっと、七海をなんとか潰してやろうってので頭がいっぱいだった。けどいまは、自分でも驚くくらい冷静に事実を受け入れてる」
繋いだ手はそのままに、氷渡は夕焼けに染まり始めた空に目を向けた。
「七海にしか出せない音があるように、俺にもきっと、俺にしか出来ない演奏があるんだろう。だからあいつの才能を妬む前に、あいつが悔しがるような音色を…俺だけのチェロを見つけようって思えるようになった。小日向…お前のおかげでな」
氷渡の言葉に目を細めて耳を傾けていたかなでは、笑みを浮かべると小さくうなずいた。そして氷渡の方へ身体を寄せ、繋いだ右腕を彼の左腕にそっと沿わせた。
「応援してるね。氷渡くんにしか弾けない音色が、早く見つかりますようにって。いまの氷渡くんのチェロも好きだけど、きっと今よりももっと素敵だろうから、ますます好きになっちゃうかも」
楽しそうに笑って話すかなでをちらと横目で見た氷渡は、夕日が反射しているせいか朱に染まったように見える頬を隠すように視線を逸らした。
「……好き好きって、音だけかよ」
「ん? なにか言った?」
「な、なんでもねぇ」
吐き捨てるように言ってそっぽを向いたままの氷渡を見上げたかなでは、やがてくすりと笑うと氷渡の腕にぎゅっとしがみついた。
「こ、小日向?」
「もちろん、氷渡くんの全部が好き」
「おまっ! 聞こえてんじゃねぇかっ!」
頭から湯気が出るのではないかと案じられるほど顔を真っ赤にした氷渡の様子に、かなでは楽しげに肩をすくめて笑みを浮かべた。そしてすぐに顔を上げると、きまり悪げに眉をひそめる氷渡の手をくいと軽く引いた。
「あ、ねぇ。七海くんのお店でご馳走になるはずだったなら、夕ご飯を食べ損なっちゃったことになるけど……どうするの?」
すると氷渡は、ようやく熱が引いてきた顔を上げて天を仰いだ。
「おふくろには朝、後輩ん家に行くって言って出てきたから、俺の分は作ってねぇだろうな。ま、適当に食って帰る」
「そんな、適当なんて駄目だよ。あ……そうだ」
軽く眉をひそめたかなでは氷渡を見上げて口を尖らせてから、ぱっと顔を輝かせた。
「それならこれから私の家にこない? お夕飯作るから、一緒に食べようよ」
「ああ、そりゃあいい考え……あ、ああっ!?」
納得したようにうなずいた氷渡だったが、かなでの言葉を改めて反芻すると目を見開き、思わず繋いだ手を離すと一歩後ろへ飛びし去った。
「こ、こんやいっしょにって! お、おまっ、な、なな、なにかんがえてんだっ!」
「なにって、氷渡くんと一緒にお夕飯食べたいなって思ったんだけど。……ダメなの?」
首を傾げるかなでが眩しくて、氷渡は久しぶりの感覚にくらくらと目眩を起こしそうになった。少し寂しげな表情で伺うように見上げてくるかなでの瞳には、これまで一度だって抗えたことがない。
「だ、だだっだめってわけじゃねぇ! けど日が落ちてから、女が一人で暮らしてる家に上がり込むわけにいかねぇだろっ!」
「え、でも響也はよく来てたよ。ご飯一緒に食べたり、テレビを見たり……そういえば私がお風呂から出てきたら、テレビをつけっぱなしでソファで寝てたこともあったなぁ。ああいうの、資源の無駄遣いだよねぇ」
「きっ……如月響也ぁっ……ゆ、許さねぇっ!」
「幼なじみだからって調子に乗りやがって! 今度会ったら確実に絞めるっ!」と拳を震わせて心に誓ってから、氷渡はかなでの両肩を掴んで真剣な表情を浮かべた。
「小日向、いいか! いくら幼なじみだからって、そうほいほい男を一人暮らしの家に上げるな! まして夜まで一緒だなんて、なんかあったらどうすんだ!」
「なんかって……あるわけないよ。だって響也だもん」
「そういう油断が危険なんだよ! 如月だろうが七海だろうが、とにかくっ、俺以外の男と家で二人っきりになるようなこと、これからは絶対するなよっ!」
「……う、うん」
氷渡の勢いに押されて反射的にうなずいたかなでだったが、ほっとしたように力を抜いて離れようとする氷渡の手を取ると、にこりと微笑んだ。
「それじゃ、氷渡くんだからいいよね。晩ご飯、家で食べていってください」
ごくりと息を飲んだ氷渡は目を剥いて一瞬固まったが、こうなるともはや、うなずくという選択肢しか彼には残されていなかった。