ヴァイオリンアイコン

現実逃避のタイムラグ

(3)

――お、落ちつかねぇっ!

やけに広いリビングにも、スプリングの利いたソファにも、海辺の夜景が美しい見晴らしのいい大きな窓ガラスにも、氷渡は視線を合わせることが出来なくて、落ちつきなく壁や天井を何度も彷徨わせた。

なんと言っても一番凝視できないのは、奥のキッチンで機嫌良く鼻歌まじりで動き回る、エプロンをつけたかなでの後ろ姿だ。

結局、かなでの提案を受け入れた氷渡は、そのまま上機嫌になったかなでにスーパーへと連れて行かれ、衆人の面前で「食べたい物があれば言ってね。氷渡くんの為に頑張っちゃうから」と、望まぬバカップルぶりを披露することになり、照れる間もなく買った食材を抱えて。かなでの住むマンションへ戻った。

そして現在、かなではキッチンへ楽しげに料理を作り始め、手持ち無沙汰になった氷渡は「テレビでも見ていてください」とリビングに置き去りにされたのだった。

「な、なんだこれ? まるで……あ、あれじゃねぇか。し、しんこ……ん……」

ぼそりとつぶやいた氷渡は、次の瞬間悶絶するように身体を丸めてソファの上でうずくまった。

「な、な、なに考えてんだ俺はっ! 新婚だとか馬鹿じゃねぇかよ! いくら小日向が新妻みたいに見えるからって……に、にいづ、ま……? …………うあぁぁぁっ!」

嬉しいのか嬉しくないのか、氷渡は頭を抱えて顔を赤らめたり青くしたりしながら低く唸りつづけた。

「ねぇ氷渡くん、テレビに虎とか怪獣とか出てる? なんか……変な声が聞こえてくるんだけど……」

「テッ、テレビだテレビっ! いまネイチャーチャンネルで、熊が鮭取っててだなっ!」

「あ、そうなんだ。地鳴りだったら怖いなって思ってたからよかったー」

「あ、ああ。だ、大丈夫だっ」

こうなるとむやみに悶えるわけにもいかなくなってしまい、氷渡はひたすら頭を抱えるしかなかった。一刻も早くかなでが調理を終え、夕飯を早く済ませてこの場から出て行けますようにと願うしかなかった。

「俺の理性……頼むから最後まで保ってくれ…っ!」

 

「そういえば……」

茶碗を手にしたまま、かなでは向かい側に座る氷渡に小首を傾げてみせた。出来るだけ彼女のエプロン姿を視界に入れないようにしている氷渡だったが、かなでの愛らしい仕草に、ぐっとご飯を喉に詰まらせそうになった。

「七海くんのお店に行くなら、そう言ってくれればよかったのに。声をかけようとしたらすごい勢いで教室を出て行くから、驚いたよ」

やっぱり気づかれていたか、と、後ろめたい気分になったが、ここは努めて冷静にいようと氷渡は咳払いを一つしてみせた。

「言わなかったのは悪かった。まぁ……色々あってだな、急いでたから」

「色々って?」

「い……色々は色々だ。複雑っていうか、ひとことでは言えないっていうか……」

「ふぅん……七海くんのお店に行くのって、そんなに大変なことだったんだね。私、けっこう気軽にお呼ばれしてたから、今度は気をつけるね」

「あ、ああ……え? おまえ、七海の家に行ったことがあるのか?」

思わず身を乗り出す氷渡の前で、かなでは素直にこくりとうなずいた。

「うん。天音に転校してきてからすぐぐらいに、七海くんが誘ってくれたの。至誠館の人たちとも行ったことがあるから……三回くらいかな」

かなでの言葉を聞いた途端、氷渡はがくりと頭を垂れてテーブルに突っ伏した。その様子にかなでもさすがに驚き、椅子から腰を上げるとテーブル越しに身を乗り出した。

「ひ、氷渡くんどうしたの大丈夫? お料理、そんなにまずかった?

「いや……どれもこれもすげぇ美味い。ただ、俺の心が折れただけだから気にすんな

「気になるってば! そうだ、お水持って……」

来るね!と続けようとしたかなでの手を掴んだ氷渡は、深いため息をついてからゆっくりと顔を上げた。

「おまえもうすぐ誕生日……だよな」

「え……あ、ど、どうして知ってるの?」

「知ってて当然だろ、彼女の誕生日くらい。だから当日はメシでも奢ろうと思って、色々いい店探してた。そしたら七海が『この前チェロ指導してもらったので、一度うちの店に食べに来てみてください』っていうから、中華も悪くねぇかって思って、下見兼ねて行くことにしたんだよ」

言って肩を落とした氷渡は、かなでの手を握ったままで、またため息をついた。

「けどあいつ、小日向が来たことがあるなんてひと言も言わなかったぜ。くそっ、騙しやがって」

「――でも氷渡くん、そう考えてたの七海くんには話してないんでしょ?」

「話すかよ。どこからお前に話が漏れるかわからねぇし、バレたらサプライズにならなくなるじゃねぇか」

「だったら、七海くんは悪くないよ」

言ってくすくすと笑うかなでを、氷渡は恨めしげに見上げてから眉をひそめて視線を逸らした。しかしすぐに顔を上げると、いつの間にかテーブルを廻って隣に来たかなでに抱きつかれ、バランスを崩して椅子から転げ落ちた。

「うわっ!」

「ありがとう。やっぱり好き。氷渡くん、大好きだよ!」

「わ、わかったっつうか知ってる! 知ってるからっ、は、早く離れろっ! ここでこういう状況ってのは、い、色々とヤバいんだよ、俺がっ!」

「また、色々なの? もぉ、今度の色々はなぁに?」

かなでの柔らかい身体の感触に、氷渡はもはや悲鳴に近い声で叫ぶしかなかった。

「ばっ! んなもん、説明できるかっ!」

おわり