ヴァイオリンアイコン

現実逃避のタイムラグ

(1)

エントランスで目の前を通り過ぎる生徒達を、見るともなしに見送ること十五分。

その間、同学年の生徒も何人か見かけたが、誰もこちらに感心などないようだったし、こちらもどうでもよかった。

少なくともこの学園に入学してから一年と半年の間、そんな感情は微塵も浮かばなかった。いや、気にしないことにしていた。そうでなければ、ここで過ごす資格がないような気がしたからだ。

しかし今日の彼彼、氷渡貴文は何気ない風を装いながらも行き交う生徒達の顔を観察し、誰も自分に不信感を抱いていないかしきりに気にしていた。そして時折腕時計に視線を落とし、なかなか進まぬ針に悔しげに眉をひそめた。

「……七海の奴、この俺を待たせるとはいい度胸してるじゃねぇか」

待ち合わせは16時30分。氷渡が到着したのは16時4分。

そして今、16時32分。

確かに後輩は2分遅れているが、氷渡が待ち合わせ場所であるエントランス階段の横で、実に二十分以上も待ちぼうけを食らっているのは後輩の所為ではない。とはいえ、教室を早く出てきたのには、彼なりの理由があった。

のんびりと待ち合わせまで時間を潰そうなどとしたら、必ず彼女が声をかけてくるだろう。そして早く帰ろうと絶対に言ってくるはずだ。

それを避ける為に、氷渡は授業が終わると同時に素早く教科書を鞄の中に突っ込み、逃げるようにして教室を飛び出したのだ。

別に声をかけられたところで、用事があるのならそう言えばいい。それを聞き分けられない相手でもない。

「七海と約束してるから、今日は一人で帰ってくれ」

そう言えばいいだけなのだが、それは氷渡の方が無理だった。

彼女がふわりとした笑顔を浮かべて近寄ってきて、愛らしく首を傾げ、小さな赤い唇から自分の名が漏れたその次に、甘えるように「一緒に帰ろう?」と言われたら……。

「こ、断れるわけがねぇ…っ!」

思わずうめいて頭を抱えると、ちょうど階段から降りてきた女子生徒がびくりと肩を震わせ、階段の手すりを避けるように大回りをして駆け去っていった。しかし氷渡はそのことに気がつかなかったらしく、がくりと肩を落とすと大仰にため息をついた。

「今ごろあいつ…俺を捜してるかもな。まさか見つからなくて不安になって泣いてるとか…ど、どうしたら…」

相手が十七歳の高校生であることを失念しつつある氷渡だったが、彼が我慢の限界を越えそうになったところで、ようやく待ち人である後輩、七海壮介の声が背後から近づいてきた。

「お、遅れてすみません! 掃除で思ったより手間取ってしまって…っ!」

息を切らせているらしい七海の声に振り返り「おせぇんだよ!」と怒鳴ろうとした氷渡だったが、七海と一緒に走ってきた少女の姿に、ぎくりと音がしそうなほど身体を震わせて固まってしまった。

「こ…こひっ、なた…」

「ごめんね。廊下で七海くんに会ったら教材を運ぶのを手伝ってくれて、それで遅くなっちゃったの。だから七海くんは悪くないから、許してあげて」

「いえ、急いでいてぶつかりそうになった僕が悪かったんです。すみません氷渡先輩、遅くなってしまって」

「だ、大丈夫なのかよ!」

いきなりスイッチが入ったように小日向かなでの両肩を掴んで身体を屈める氷渡に、七海は唖然とした表情を浮かべ、かなではというと困ったような笑みを浮かべた。

「うん大丈夫。ぶつかりそうになっただけで、ぶつからなかったから。でも教材は廊下に落としちゃったけどね」

「そんなもん、どうとだってなるからいい。小日向が無事なら、それで」

「うん、だから大丈夫。氷渡くん、少し心配しすぎだよ」

「心配すんだろ、普通…その…自分の彼女なんだから」

ぼそりと言ってふて腐れたように視線を背ける氷渡を、かなでは数回まばたきをして見上げていた。やがて目を細めて微笑むと、氷渡の首に腕を伸ばして飛びついた。

「なっ!?」

「ありがとう、心配してくれて。氷渡くんのそういう優しいとこ、すごく好き」

「す、好きとかこんなとこで言うなっ! そっ、そういうのは二人だけの時にしとけっ!」

「二人っきりの時には、氷渡くんから言ってくれるでしょう。だから他の時には、私が言った方がいいのかなって」

「別に言わなくていいんだよ! お、おまえが俺のこと好きだってのは……わ、わかってんだから」

「あの……俺、帰った方がいいですか?」

居たたまれなくなったのか、誰よりも顔を赤く染めた七海がぼそぼそと遠慮がちに呟くと、ようやく二人は息を飲んで互いの顔を見合わせると、弾かれたように身体を離してお互いに視線を逸らした。

「や、やっぱり俺、帰った方が良さそうですね。ええと、お二人ともお疲れさまでした!」

勢いよく頭を下げた七海は、我に返った氷渡が「あ……ち、ちょっと待て七海っ!」と叫んで伸ばした腕が届くよりも先に、一目散にその場から逃げ出してしまった。