そこは闇だった。
しかし、月明かりが微かに差し込めるおかげで、真の闇ではなかった。
彼女は眠っていた。微笑みを僅かに浮かべて。
その彼女の髪に、彼の手がそっと差し入れられる。大切なものに触るように、優しく愛おしそうに一房の髪を愛撫する。
やがて躊躇うようにその手が、闇に溶ける。
遠いような近いような場所から扉が閉まる音が静かに響く。
後には天使の微笑みだけが残された。
アンジェリークは唇を噛みしめていた。
『もう泣かない、そう決めたんだもん』
彼女は、彼の残した紙切れを握りしめる。両手で握ったまま口元に持っていき、嗚咽を堪えていた。
『すまない、アンジェリーク…。俺はやっぱりおまえと一緒には行けない』
幸せな夜が明けた時、そこに彼はいなかった。ただ、書き置きだけが枕元に残されていた。
『でも、これだけは信じて欲しい。おまえを守ると言ったことは本当だ。だから何かあったら俺を呼べ。何処にいたって、何があったって必ずおまえのところへ行く。俺の魂はいつだっておまえの側にいるから……』
アリオスは私の涙は嫌いだって言ってた。…苦手だって。
だから、もう泣かないって決めたんだ…。
「約束……絶対忘れないで。きっとよ、アリオス」
アンジェリークは手紙を抱きしめる。
朝日に映し出されたその背中には、白い翼が微かに輝いて見えた。
「還らなくちゃ、アルフォンシアの処へ……レイチェルのもとへ。私のいるべき世界へ……一緒に行こうね、アリオス」
彼は、昨夜初めて言ってくれた。
一番聞きたかった言葉。私が何よりあなたに伝えたかった言葉。
抱き締めてくれた腕の力強さと、耳元で囁いた言葉を私は忘れない。
だから……また逢えるよね。あなたと私が巡り逢えたのは、奇跡なんかじゃないから。
「……愛してる、アンジェリーク」
「お客さん、そろそろいい時間だと思うよ」
宿屋の主人は店の奥から、ワインを持ち出しカウンターにいる青年に差し出した。
「オーロラの見える岬でデートなんてしゃれてるねぇ。おまけにこのワインときちゃあ、どんな女もいちころだね」
「んな奴じゃねーよ」
青年は苦笑して髪をかき上げる。深い碧の瞳が、主人を見つめた。
「ムードのかけらも持ってねえからな、ほんとに」
ワインを受け取ると、金貨をカウンターにぽんと投げる。そして軽く手を上げると扉へ向かった。
「1?2時間で戻るからさ。温かいスープでも用意しといてくれ」
「え、だってお客さんデートでしょう?彼女、怒るよ。そんなんじゃ」
彼は振り返ると、皮肉っぽい微笑みを浮かべる。
「だから、言ってんだろ? ムードも何もないおっちょこちょいなんだよ、あいつは……」
風花の町からほど近い岬。目の前には暗い海が横たわっている。
それでも恐ろしさを感じないのは、天を覆い尽くさんばかりに拡がるオーロラの所為だろうか。
彼は柔らかい雪苔の上にごろんと仰向けになる。
『綺麗でしょうね、ここから見るオーロラって』
「…ああ、たいしたもんだぜ」
『神秘的で優しくて…なんだか女王陛下みたい』
「そうか? ま、おまえじゃないことは確かだけどな」
『見たいなぁ。…ねえ、アリオス。一緒に見に来ない? あ、もちろん全てが終わったらだけど』
「……そうだな。いつか一緒に来れたら……いいな」
『うん。じゃ、約束よ。絶対一緒に来ようね……きっとよ』
「……ああ」
アリオスは起き上がると、ワインのラベルを眺める。
「甘口だから、おまえでも大丈夫だろ?」
栓を抜くと、甘い香りが一瞬辺りに漂う。一口あおり、そっと隣に置く。
目に見えぬ誰かに手渡すように。
あの時。胸に、一瞬激痛が走ったあの時。
アリオスが感じたのはそれだけではなかった。
レヴィアスの、記憶。
レヴィアスの心と魂はアンジェリークによって救われ、エリスと共に旅立っていった。しかし、彼の記憶はアリオスの中にとどまっていた。
権力への強すぎる憧れと嫌悪。他人に対する羨望と絶望、憎悪。
それらが総て同居していたレヴィアスの記憶が一瞬にして蘇り、暴走しそうになった。
メルやティムカの声が聞こえ辛うじて抑えられたのだが、いつまたこの発作が起きるか分からない。
明日か、明後日か。10年後か、100年後か。その時アリオスは決めたのだった。
これ以上、アンジェリークを巻き込むことは出来ない。彼女の新しい無垢な宇宙に、このどろどろした記憶を持ち込めない。
『おまえの宇宙には……未来だけがあればいいんだ。俺のような過去はないほうがいい』
例えそれが、彼女との永遠の別離になるとしても……。
オーロラはきらきらと中空に漂っている。アリオスは、腰に結わえつけた小さな袋から何かを取り出した。
『好きだって言ってたから…はい、これ』
掌にすっぽり収まってしまう小さなオカリナ。
『オリヴィエ様が拾ってきて下さったの。あなたが消えた場所から。お守りにすればいいって。でも、あなたは帰ってきてくれた。だから、あなたが持ってて。私があげた初めてのプレゼントなんだから』
アリオスはゆっくりとそれを吹き始める。
その音色は子供の頃、レヴィアスがたった一度だけ母親に唄ってもらった鎮魂歌だった。
『へえ、上手なのね。アリオスって』
『こんなもん、誰でも吹けるだろ?おまえが不器用すぎるだけだよ』
『…返してよ、もう』
『また、そんな面白い顔して。くれるって言っただろ?』
『もーっ、アリオスったら!』
おまえ、笑ったりそういう顔してるほうがいいぜ。泣いてるよりはずっとな。
だから、俺の前ではもう泣くな。
おまえがもう二度と泣かなくてすむように、俺がおまえを守ってやる。
約束するよ、アンジェリーク……。