次に気が付いた時にはもうアンジェリークは目の前にはいなくて、これからについて相談するためにロザリアに連れていかれた後だったのだ。
あれはどういう意味だったのだろう、と思い出し、すぐにヴィクトールは首を振って苦笑した。
「懐かしい顔を見れて嬉しいと言っただけだ。そうだ、そうに違いない」
ハハハと軽く笑って、本棚にかけられた梯子に手をかけよじ登ると棚の上の段をせっせと雑巾で拭き始める。
「でも……もしかしたら、あいつは俺のことを……。い、いやっ、そんな事はなかろうっ! まったく、何を考えてるんだ、俺は」
「何を考えてたんだい?」
「うわっ!!」
ガクッと足を踏み外したが、慌てて梯子にしがみついたおかげでどうにか床に激突せずにすんだヴィクトールは、バクバクいう心臓を感じながら顔を上げた。
「セ、セイランっ! お前いつからそこにっ!」
図書室の入り口に寄りかかり、セイランは意味あり気な笑みを浮かべていた。
「いま来たばかりさ」
「そ、そうかっ」
誤魔化すように笑うと、ヴィクトールはゆっくりと梯子を下りた。そして床に積み上げられた本の山をむやみに拭いてみたりする。
「ところで何の用だ。それとも手伝う気にでもなったのか?」
「まさか。少しばかり好奇心が起きただけだよ。……それにしてもヴィクトール」
セイランはその場に散らかっている紙切れを指で摘み上げ、ヴィクトールに押し付けるとくすっと笑った。
「君の真面目さは知ってるけど、なにもそこまでしなくても良いんじゃないのかい?」
「え?」
セイランが呆れたように髪を掻き上げるのを見た後、ヴィクトールは自分の胸元に目を落として慌てた。
「うっ! なんだこれはっ!」
どうやら足を踏み外してずり落ちたときに、梯子の汚れていた部分を思いきり擦ってしまったらしい。ヴィクトールの白いシャツの胸元には、ちょうど縦にくっきりと泥のような汚れがこびりついていた。
「服を着替えてから掃除すべきだったと申し上げるよ」
「これは……落ちそうもないな」
はぁっと溜息をつくとヴィクトールは軍手を外し、頭を軽く掻いた。それをちらりと見たセイランはふーんと感嘆したような声を漏らす。
「君が人前で手袋を外すなんて驚きだ。何か心境の変化でもあったのかい?」
「え? あ、ああ。いやその……自分を無理に隠すことはないと言われたんでな。ありのままでいることが、結局は自分のためになるのだと」
「アンジェリークに?」
「ああ……え、い、いやっ! そ、それはだなっ!」
セイランのさらりとした問いかけにあっさりと引っ掛かったヴィクトールは、慌てて手を振るとしどろもどろで弁解を始めた。しかしセイランはまったく聞いていないようで、しばらく声を殺して笑っていた。
やがて笑いを納めたセイランはまじまじとヴィクトールを見つめて口を開く。
「わかりやすいところは変わってないね。安心したよ」
「……お前もそうやって人をからかうところは変わってないな」
「そうかな?」
二の句が告げないヴィクトールを楽しそうに観察していたセイランだったが、いま急に思い出したようにふと言葉を漏らした。
「そうそう。さっきティムカが言ってた事だけど、その日君はどうするんだい?」
「は?」
いきなりの話の飛び方に面食らうヴィクトールにはおかまいなしにセイランは続ける。
「僕は騒がしいことは嫌いだけれど、この不思議な大陸とそこで起こる不可思議な現象にはなかなか興味をそそられる。もっとも、今回の場合は女王陛下が意図的に起こす現象だけれどね」
「ああ、雪祈祭の事か」
ようやく納得がいったヴィクトールを、セイランは呆れたように見上げた。
「だからさっきからそう言っているじゃないか。まさか耳が遠くなったとでもいうつもり?」
「……お前の話は、どうも俺には理解しにくくていかん」
溜息をつくと、ヴィクトールはセイランから離れて再び本の山に戻る。
そして虫干ししていた数冊を持ち上げて棚に戻し始めた。
「俺は別に特に予定はない。珍しい祭りらしいが、男一人でうろつくのもあまり楽しくはないだろうしな。どうせアンジェリークもその日は休みで来ないだろうから、部屋で本でも読んで過ごすか、雪の降る空を見上げながらのんびり昼寝でもさせてもらうさ」
「アンジェリークを誘わないのかい?」
「えっ!?」
またもセイランの言葉に驚いて手元の本を落としそうになるが、どうにか抱え直すとヴィクトールは顔を上げた。
「お、お前、またそんな事を……」
「僕は誘おうと思っているよ。ティムカもそう言っていた。さっきランディ様やゼフェル様にお会いしたけれど、どうやら彼らもそう思っているらしい。だから君はどうなんだろうと思ってさ」
そう言うとセイランは、珍しく真面目な視線をヴィクトールに向けてきた。
しばらくその目をじっと見つめていたヴィクトールだったが、やがてふうっと溜息をつくと、床に置かれていた分厚い辞書を拾い上げてその表面をそっと撫でた。
「……俺と一緒じゃあいつも窮屈だろう。だいいち、俺なんかよりお前やランディ様たちと祭りに行った方が、何倍も楽しめるじゃないか」
「突撃前に戦線離脱するっていうんだね」
「戦線離脱もなにも、俺はあいつのことを……そんな風に見ちゃいない」
そう言ったきり、あとは黙々と棚を片づけ始めてしまったヴィクトールの様子をセイランはじっと見つめていたが、やがて軽く笑うとふいっと顔を逸らし、どこへ行くとも何も言わずにその場を後にした。