……今ごろ広場は大騒ぎだろうな。
そう広くないと思われる広場と、そこを行き交う人達の喧騒を想像しながらヴィクトールは目を閉じた。
銀の大樹のすぐ側にある日突然現れたこの平原は、誰が名付けたのか「約束の地」と呼ばれるようになっていた。そのどこまでも続くかのように見える芝生と、そこに点在して生えている木々の根元で昼寝をする事が、いつの間にかヴィクトールのお気に入りのひとつになっていた。
ここにいると、日頃の慌ただしさや危機感すら忘れられるような気がしてくる。
あいつは……けっきょく誰と一緒に雪祈祭に行ったのだろう……。
雪祈祭当日である今日の朝。
「今日はアンジェリークをお誘いしようと思っているんです」と微笑んだティムカと、その側で無言で自分を見つめてくるセイランに会った。
セイランは何か言いたそうにも見え、またどうでもいいと思っているようにも見えた。「楽しんでこいよ」とティムカに声を掛けたときも、セイランは無言だった。
ただ、最後にひと言。テイムカと連れ立ってアンジェリークのところへ行くという別れ際に、たったひと言だけこう言った。
「自分を無理に隠すことはないと言われたんじゃなかったっけ?」
別に隠してなんかいないさ……俺なんかに誘われたって、あいつは迷惑だろうし。
それに俺は……あいつのことをそんな風に思っちゃいないからな。
「お前だって……そうだろう、アンジェリーク?」
ぽつりとヴィクトールが呟くと、頭の後ろの茂みがガサガサと揺れた。 いつもの習い性の所為か、ヴィクトールは瞬時に起き上がると茂みに向き直り、胸元に隠していた銃に手を添える。
「誰かいるのかっ!?」
「……ヴィクトール様、ですか?」
ガサガサと茂みを掻き分けてきたのは、いまヴィクトールが心の中で問いかけたその少女、アンジェリークだった。
ヴィクトールの顔を見たアンジェリークは、明らかにほっとしたような表情を浮かべたが、ヴィクトールの発している警戒と殺気の気配を感じてふと動きが止まる。その不安げな表情を見たヴィクトールは、慌てて手を降ろすとふっと身体の力を抜いて微笑んだ。
「驚かせてしまったか。すまんな」
「い、いいえ。私の方こそいきなり現れたんですもの。ヴィクトール様が警戒なさるのも当然です。私こそごめんなさい」
アンジェリークがぺこりと頭を下げると、ヴィクトールは慌てて手を振った。
「いや、そんなにかしこまって謝られることでもないぞ。いいから顔を上げろ、アンジェリーク」
明らかに動揺しているヴィクトールの声に、アンジェリークはふと顔を上げる。するとそこには軽く頭を掻いているヴィクトールの姿があった。その様子が本当に困っているように見えて、悪いと思いつつもついついアンジェリークの顔に笑みがこぼれてくる。
「くすくすっ。ご、ごめんなさい、ヴィクトール様」
「い、いや。泣かれたり怒られたりするよりは笑ってくれたほうがありがたい。それに、お前には笑顔の方が似合うしな」
「え?」
ぱっと顔を上げるアンジェリークを見て、ヴィクトールはうっかり口を滑らせたことに気がつく。
「あ、いやっ! 笑顔で頑張っているお前は偉いと感心したんだ。うん、偉いぞ、アンジェリーク」
「あ、ありがとうございます……」
上手くはぐらかされたような気がしたが、アンジェリークはそれ以上追及しようとはしなかった。それがヴィクトールには、なによりもありがたかった。
芝生の中に白詰草を見つけたアンジェリークは、それをそっと撫でていた。そんな少女の隣に座り、彼女を見守りながらヴィクト-ルはつぶやく。
「ところで今日は雪祈祭だろう。お前はこんなところにいてもいいのか?」
今ごろはティムカだけではない、守護聖たちの中の数人もアンジェリークの部屋に詰めかけていることだろう。年に一度の雪と天使の祭りに彼女を誘いだすために。
「実は……逃げてきちゃったんです、私」
アンジェリークはそう呟くと、顔を上げて困ったように微笑んで見せる。
「朝起きたらレイチェルに『守護聖さまや他の皆さんが何人か誘いに来てるけどどうする』って言われて。それで、どうしていいかわからなくて、私……」
「こっそり抜け出したのか」
ヴィクトールの言葉に、アンジェリークはこくんと頷く。
「皆さんと一緒に行けばいいかなって言ったんですけど、レイチェルが『それはダメ』って。このお祭りは特別なんだから、本当に好きな人を一人選びなさいって言われて。でも、私、誰か特別な人って言われても……そんな人いないし……」
アンジェリークはここでちょっぴり嘘をついた。自分にとって特別な誰かがいないわけではない。誘いに来た人の中に、その特別な誰かがいなかっただけだ。
「それで逃げ出してここに辿り着いたら俺がいたってわけか……」
「はい」
特別な人と過ごす雪祈祭。
せっかく誘いに来てくれたのにごめんなさい、という後ろめたい気持ちを抱きながらこっそり抜け出して、ここに辿り着いたら偶然にもヴィクトールがいた。
アンジェリークにとっての特別であるヴィクトールが。
「ヴィクトール様は……お祭りに行かないんですか?」
白詰草から視線を移し、ヴィクトールの横顔を見つめてアンジェリークは首を傾げる。
「俺みたいな男が一人で祭りに参加したっておかしいだろう? それに、あまり賑々しいのは苦手でな」
ヴィクトールはふっと苦笑すると、アンジェリークに向き直った。
「でも、お前は楽しみにしてたんじゃないのか? 行かなくて良いのか?」
「楽しみにはしてましたけど……でも、いいんです、もう」
ふふっとアンジェリークは笑うと、怪訝そうに自分を見つめるヴィクトールを見上げるようにしてもう一度くすっと笑う。
「本当にいいのか? 折角の祭りを楽しみにしていたんだろう?」
「本当に、いいんです」
だって、行かなかったから……ヴィクトール様に会えたんだもの。
「あの、ヴィクトール様」
「なんだ?」
約束の地を並んで歩きながら、アンジェリークは嬉しそうにヴィクトールを見上げた。
「レイチェルが言ってたんです。『一度目は必然。二度目は偶然。でも三度目は、それは奇跡っていう名の魔法』だって」
「……そうか」
ヴィクトールにはアンジェリークが何を言いたいのかはよくわからなかったが、彼女が言った言葉の響きが気に入った。なんだか、自分の心の中を上手く表しているような気がしたからだ。
「一度目は必然。二度目は偶然。でも三度目は……」
「奇跡っていう名の魔法……なんです」
アンジェリークが微笑んであとを続ける。ヴィクトールはそんな少女を黙って見つめた。
どうして俺はこの少女と一緒にいると、こんなに穏やかで優しい気持ちになれるのだろう。
「……アンジェリーク」
「はい?」
見上げてくる少女の手をそっと握る。一瞬びくりとアンジェリークは身体を震わせたが、すぐに赤くなって俯いてしまった。
ヴィクトールの大きな手の中で、少女の小さな手は微かに震えていたが、拒んだりはしなかった。
「アンジェリーク……」
もう一度つぶやき彼女の手を握り返したとき、数人の声が遠くから聞えてくることに気がついて同時に顔を上げた。まだかなり遠いそれは、どうやらアンジェリークがすっぽかした連中らしい。
彼らはアンジェリークが忽然と屋敷から姿を消したことに驚き、祭りもそっちのけで彼女をあちこち探しまくっていたのだ。
「皆さんだわ」
アンジェリークは呟くと、ヴィクトールを不安そうな目で見上げてきた。その顔を見たヴィクトールはすっと視線を声のする方に向けたが、すぐにアンジェリークに戻して珍しく悪戯っぽく笑って見せた。
「雪祈祭、本当に行かなくても良いんだな?」
アンジェリークはこくんとうなずき、それからはにかんだような笑顔になった。
特別な人と過ごすのが雪祈祭だというのなら。ヴィクトールと一緒にいる事が、自分にとっての本当の雪祈祭だ。
「じゃあ……逃げるか?」
「はいっ!」
ふっと軽く笑ったヴィクトールにアンジェリークもつられて笑い、ヴィクトールの大きな手を握り返した。
そして二人はそのまま走りだした。
一度目の出会いは必然。二度目の再会は偶然。
でも三度目は……奇跡という名の恋の魔法。