「…無事でよかった」
再会した時の、オスカーの第一声はこうだった。
そしてそのことが、すべてが終わった今もロザリアの心に引っ掛かっている。
テラスから室内ヘと視線を向ける。
夜の帳が降り、肌寒くなってきた外の空気とは違い、広間は光に溢れ、温かさに満ちていた。
つい先ほどまで、まだ体調が万全ではなさそうだった金の髪の愛らしい女王も、今は楽しそうにはしゃいでいる。その姿に「パーティが終わった途端、倒れたりしなければ良いけれど…」と呟きながらロザリアは苦笑する。
そう言いながらも、彼女自身も気持ちが高揚していた。ようやく訪れた安堵感に酔っていたのかもしれない。だから常になくワインを飲み過ぎてしまい、今こうやってただ一人、夜風に火照りを醒ましてもらっているのだ。
ぼんやりと室内の様子を見つめていると、栗色の髪が視界の端に映った。
見ればアンジェリークが、辿々しい足取りでダンスのステップを踏んでいる。しかしパートナーは、そんな彼女を優しくリードし、愛情のこもった柔らかい視線を彼女に注いでいた。
今日を限りに離れ離れになってしまう二人だが、それでもお互いを思いあう気持ちは、こうやって離れた場所から見ているロザリアにも感じることが出来た。
……幸せ、なのね。
出来ることならば、いつまでも一緒にいさせてあげたい。無理だとはわかっているけれど。
いや、あるいはあの二人なら乗り越えてしまうかもしれない。
けれど、それはロザリアが決めることではなく、彼ら二人が決めることだ。
幸せそうに微笑みあう二人の動きが止まる。音楽が終わったのだ。
その二人のもとに歩み寄る青年の赤い髪が視界に入ると、ロザリアは慌てて室内に背を向けた。
そして小さく溜息をつくと、テラスの端に寄りかかって星を見上げた。
再会してから今まで、彼とはまともに話をしていなかった。個人的に話した言葉といえば「無事でよかった」のひと言だけ。
あとは女王の容体を伝えたり、武器を手渡したり、聖地の復旧業務や各地の被害状況の報告や対処についてなどといった事務的なものばかり。
つまり落ち着いて話すことはおろか、二人きりでいる僅かな時間すら作れない状態なのだ。
だが、それは仕方がないとロザリアはわかっている。こんな状況で以前のように追い回されたのでは、お互いに業務に差し障る。それはオスカーもわかっているのだろう。
だからこそ、今まで二人は満足に話も出来ていないのだ。それでも、とロザリアは自分の理性に反論した。
離れ離れになる前は、鬱陶しいくらい側にいたくせに。それこそ、ありとあらゆる美辞麗句を並べ立ててきたくせに。
なのに、やっと逢えたというときの台詞が「無事でよかった」のひと言だけ?
そんな、誰でも言えるような言葉だけだなんて……。
他の方がいたから? 皆さんの目を気にしていたからなの? そんな事、今さら気にするような貴方ではなかったはず。
チャンスなんていくらだってあったわ。
今だってそう。廻りには誰もいない……わたくしは一人きりよ。
ねぇ、気がつかないの?
ロザリアはほうっと溜息をついた。と同時に、オスカーに対して、まるで何かを期待しているような自分の考えに気がつき、頬を染めた。
わたくしったら……なにを考えているの?
あの方の態度はまやかし。あの方の言葉は麻薬。
うっかり受け入れてしまえば、たちまち囚われ抜け出せなくなってしまう。
そうわかっていたはず……なのに。
「…ロザリア?」
不意に背後から聞こえてきた声に、ロザリアは心臓が破裂するのではないかと思うくらいに驚いた。
が、それを悟られぬように一度だけ深く呼吸を吐き出すと、ゆっくりと振り返って儀礼的な笑みを浮かべた。
「あら。オスカー、どうなさったの?」
「それはこっちの台詞だ。…気分でも悪いのか?」
「いいえ。ただちょっとワインを飲み過ぎたみたい。でもこうやって風に吹かれていたおかげで、大分酔いが醒めましたわ」
「…そうか」
オスカーは安心したような軽い笑みを浮かべると室内をちらりと振り返り、テラスの扉を閉じた。そして、ゆっくりとロザリアの方へ歩いてくる。
ロザリアはオスカーを黙って見つめていた。
そして彼が、お互いの息が掛かるくらい目の前に来て立ち止まったとき、思わず顔を伏せて目を閉じてしまった。
が、しばらくすると、当然抱きしめてくるだろうと思っていた彼の身体が、すっと横に移動した。
思わず顔を上げると、オスカーは何事もなかったようにロザリアの隣に並び、テラスの柵に手をかけて天を仰いだ。
「星が綺麗だな……」
仕方なしに、ロザリアは小さく呟く。
「…ええ」
「またこうやって、この場所から星を見られるようになってよかったぜ。……君と一緒に、な」
「そう、ですわね」
ロザリアが視線を逸らしたまま答えると、オスカーは口を噤み、怪訝そうな表情を浮かべて彼女の方へ顔を向ける。
「やっぱり具合が悪いんじゃないのか? 無理はよくないぞ」
「無理なんか…」
「していません」と、いつもならきっぱりと言い切ることだろう。そしてオスカーを見上げて気丈に笑ってみせるはずだ。
しかし今日のロザリアは、語尾を濁して顔を俯けたばかりか、身体ごとオスカーに背を向けてしまった。
常になく華奢に見えるその後ろ姿に、オスカーは思わず手を伸ばした。が、その手はロザリアを抱き寄せる前にぴたりと止まり、やがて名残惜しそうに空を握りしめてから下に降ろされた。
「……女官を呼んでこよう。君は少し休んだほうがいい」
言うとオスカーはくるりと踵を返し、カツカツと小気味よい音を立ててテラスの扉へ向かった。
「……どうして?」
搾り出すようなロザリアの声に、オスカーの動きが止まる。
「貴方に……伝えたいことがあったの。もう一度逢えたら、今度こそ言おうって」
「なのに貴方は……わたくしを見てくれない。聖地に戻ってきてからずっと、話かけてさえくれない」
ロザリアは、自分の口から次々と出てくる言葉に驚いていた。
こんな恨み言、いつもなら絶対に言ったりしないのに。今日に限って、何故こんなに簡単に思っていることが口をついて出るの?
……いいえ。こんな事、わたくしは考えてなどいない。だってこれでは……まるでこの人に惹かれているみたいだもの。
ああ、そうだわ。きっと、まだワインが残っているせい。わたくしは酔ってるんだわ。そう……酔っているだけよ。
「……違うんだ」
オスカーの肩が小さく震えた。
「いいんです、最初からわかっていましたから。貴方の言葉は砂糖菓子と同じ。甘いだけで、あっという間に溶けてなくなってしまうのよ」
「ロザリア……」
堪らずオスカーは振り返った。
だが、躊躇うようなオスカーの表情を見た途端、ロザリアは両手をぎゅっと握りしめ、今度は彼女が顔を背ける。
「貴方の優しい態度もそう。まるで夜の闇のように、新しい太陽が昇れば消えてしまうものなのだわ。そうよ、わたくし、わかっていたんだからっ」
「ロザリア、聞いてくれ…」
オスカーは足早にロザリアに駆け寄った。
が、彼女の肩を掴もうと伸ばされた手は、やはり途中で止まってしまった。
ロザリアはその事実に、オスカーをゆっくりと見上げて切なそうに微笑んだ。
「……いいんです。もう何もおっしゃらないで。わたくし……わかっていますから」
「わかってるって……なにをだ?」
「貴方の言葉に酔う女性はあちこちにいたんでしょう? そういう方達がいるなら、なにもわたくしみたいに意固地になっている女なんかに、いつまでもかまっている必要はないですものね」
「違う…そうじゃない。俺は…」
「貴方は優しいから、わたくしを傷つけないためにそうおっしゃるのだわ。でもね、オスカー。そうやって心にもない優しい嘘をつかれるほうが……よほど残酷なの」
「ロザリア、違うと言っているだろう」
「大丈夫よ。わたくしは傷ついたりしない。だって貴方のこと、なんとも思っていなかったんですもの。そう、そのことを貴方に伝えたかったの。……そうよ、貴方のことなんか……わたくし…」
「いい加減にしろっ!」
初めて自分に向けられたオスカーの怒声に、ロザリアは驚いて息を飲んだ。
見上げると、オスカーの瞳が冷たく光っていた。その鋭い視線に、ロザリアは背筋にぞくりと寒けを感じ、口を何度か動かしながらも声が出なかった。
やがてオスカーは、ふうっと息を吐き出して視線を背けた。
そして小さく「……すまない」と呟いたかと思うと、ロザリアの腕を掴んで引き寄せ、乱暴なくらいに力を込めて彼女を抱きしめた。
「償いなら後でいくらでもする。だから今は……許してくれ」
「……償い? なんのことっ……」
ロザリアが小さく呟いたが、その言葉はオスカーの貪るような接吻に飲み込まれてしまう。
「逢いたかった……」
切なげにオスカーは囁く。
「……逢いたくて逢いたくて……狂ってしまいそうだった」
「嘘よ……」
ロザリアは、ぽつりと呟くと目を伏せた。
「嘘なものか。君が奴等に傷つけられてやしないかと気が気じゃなかった。……この白い手や」
言いながら、オスカーはロザリアの手をとり、その甲に唇を寄せた。
そして、ロザリアの豊かな髪を慈しむように優しく撫でると、一房すくい上げて口付ける。
「柔らかな髪のたとえ一房だけでも……傷つけられているかもしれないと思うと、俺は……」
と呟いたオスカーの唇は、再びロザリアのそれを塞いだ。
「……オスカー」
ロザリアが喘ぐように囁くと、オスカーは彼女を抱きしめる腕に力を込めた。
「君の声が聞きたかった……ずっと。その美しい声で、そうやって俺の名を呼んで欲しかった」
ロザリアは何か言おうとして口を開きかけた。が、オスカーはそれを口付けで阻止する。
「……君に逢えた時、どんなに抱きしめたかったか。誰に見られたってかまわない。息もできないくらい強く……誰にも邪魔させはしないほど激しいキスを、君に……」
言うとオスカーは、その言葉通りに今までよりも更に激しく彼女の唇を奪う。
ほんの少しだけ開いた扉の隙間から、新しいワルツ曲が外に漏れて流れてくる。
その音楽を朦朧とする意識の片隅で微かに感じながら、ロザリアはいつしかオスカーの背に腕を回していた。