たまには聖地の外れの高原へでも行って、ぼんやりと空を眺めたり静かに本でも読んで過ごすのもいいんじゃないか、と最初に提案したのはオスカーの方だった。
「それじゃあ、わたくし、明日はお弁当を作りますわね」
そう言ってロザリアが、久しぶりに少女のような笑みを浮かべていたのは昨夜のこと。
そして今朝。早々にベットを抜け出したロザリアの気配を感じたオスカーだったが、すぐに日頃の疲れからかまた眠りに落ちてしまった。
そうして1時間も経った頃だろうか。ラフな格好に着替えたオスカーは、良い香りと小さなハミングの漂ってくる食堂を覗いて微笑みを浮かべる。
「いいもんだな。暖かい匂いのするキッチンってのは」
「あら、お寝坊さん。ようやく起きたのね」
振り返ってロザリアは笑った。そして食器棚にカップを戻していると、入って来たオスカーがバスケットにすっと手を伸ばす。
「美味そうだ」
しかし伸ばしたその手はロザリアにぴしゃりと軽く叩かれてしまう。
「つまみ食いはダメよ。それより、早く顔を洗っていらっしゃい」
ロザリアのその言葉に、オスカーは思わず軽く吹き出してしまう。ティーポットに伸ばしていた手を止めたロザリアは、怪訝そうな表情を浮かべてオスカーを見上げた。
「何がおかしいんですの?」
「いや。まるでおふくろみたいだと思ってな」
一瞬きょとんと目を見張ったロザリアだったが、すぐに苦笑を浮かべる。
「それじゃああなたは、子供の頃からちっとも成長していないって事ですわね?」
「そんなことはないさ」
言うやロザリアをぐいっと引き寄せ、驚いている彼女の唇をあっさりと奪ってしまう。
「ガキの頃はこんなことしなかったぜ。もちろん、おふくろにもな」
「オ、オスカーっ!!」
ロザリアの困惑したような叫び声を背中で聞き流し、オスカーは楽しそうに笑いながら食堂を後にした。
「それってノロケ?」
オリヴィエが二杯目の紅茶をカップに注ぐのを見ながら、オスカーはにやりと笑う。
「まぁな」
「……帰るわ、アタシ」
オリヴィエがムッとした表情を浮かべて立ち上がると、オスカーはさも嬉しそうに微笑んだ。
「話はまだ続くんだが?」
「だったらランディにでも聞かせてやるんだね。バッカバカしい」
「まぁ待てよ、オリヴィエ。本当に話はこれからなんだ」
そう言うとオスカーは笑いを引っ込めた。意外に真面目な表情をするオスカーを無言で睨んでいたオリヴィエだったが、やがて肩を竦めるとソファにぽふんと座り直す。
「ったく! 断っとくけど、これ以上今みたいな話が続くんなら今度こそ帰るからね!」
ロザリアに頭を預け、軽く目を閉じたままオスカーが呟く。
「補佐官殿の手料理が食べられるとは光栄だな」
ソファに腰掛け、オスカーを膝枕したままロザリアは軽く微笑んだ。
「あら、そんなたいした物は作れませんでしたわよ。サンドイッチくらいしか……」
「十分さ。俺のためにっていう君の気持ちが、最高のスパイスになる」
「あなたの嫌いなマヨネーズ入りのエッグサンドでも?」
「おいおい」
オスカーが思わず目を開けてロザリアを振り返ると、彼女はくすくすと笑いながらオスカーの頭を掴んで元の位置に戻させた。
「ダメよ、オスカー。危ないから動かないで」
そう言われては逆らうわけにいかなくて、オスカーはおとなしく暖炉の方を見つめていた。
「はい。こちらは終わったわ。今度は反対を向いて」
言われるままにごろんと逆になると、ちょうどロザリアのお腹の辺りが目の前にくる。それをしばらく黙って見つめていたが、不意にオスカーはもぞもぞと手を動かし、ロザリアの腰をきゅっと抱きしめた。
「きゃあ!! な、なにするのよっ!」
飛び上がらんばかりに驚いたロザリアは、真っ赤になった顔をオスカーに向けて叫んだ。しかしオスカーは悪びれた風もなくロザリアを見上げて答える。
「いや。目の前にあるとつい……」
「だったら向こうを向いていて下さいっ!」
「そりゃあ無理ってもんだ」
「無理じゃありませんわっ! 身体ごと反対になって下さればいいでしょう!?」
「ああ、そうか」
口調は淡々としていたが、内心ではかなりがっかりしながらオスカーは立ち上がる。そしてロザリアの反対側に回り込み、再び彼女の膝に頭を預けて目を瞑った。
ロザリアはオスカーの顔が暖炉の方を向いたことに安心したのか、ほうっと溜息をついて再び耳かきを手に取った。
「油断も隙もないんだから」
「別に減るもんじゃないのに……」
オスカーの口から思わず漏れた言葉を、ロザリアの耳はしっかりと捕らえる。
「何かおっしゃいまして?」
「いいや、なにも」
しばらくお互いに無言の時間が続いたが、やがてロザリアが顔を上げてオスカーを起こした。
「はい、終わったわ。まったく、出かける前に、急に耳が痒くなったなんて我が儘言い出すんだから」
早く行きましょう、と立ち上がりかけるロザリアの腕を、オスカーはぎゅっと掴んで引き寄せる。当然、いきなりの衝撃にロザリアの身体はバランスを崩し、よろめいたかと思うとぽふんとオスカーの腕の中に収まってしまった。
「……オスカー。悪ふさげも大概になさって下さらない?」
額に軽く皺を寄せつつも、かろうじて声のトーンを落として呟いたのだが、オスカーはまるで意に介していないようだ。彼女を抱きかかえると、素早くその身体を横に倒してしまう。
「やってもらいっぱなしってのは悪いだろ? 今度は俺がお返しする番だ」
「結構ですわ」
「遠慮しなくていいぜ。いいから、ほら、おとなしく言う事をきけよ」
「い、嫌ですっっっ!!」
会話だけ聞いているとかなり怪しいが、右手に耳かきを持ってロザリアを自分の膝に固定しようとしているオスカーと、それを何とか阻止しようと腕を突っ張って彼の身体を押し返すロザリアの居間での攻防戦は、見ているだけでも十分怪しい。
ドタバタと居間から聞えてくる騒音に、食堂の横にある控室で朝食を取っていた使用人達が気がついた。
主たちはもう出かける支度が済んでいたはずだ。一体何があったのだろうと、新聞を読んでいた執事が立ち上がり、ついで召使い達も目配せしながら部屋を後にする。
廊下を足早に進むと、やはり居間から騒音と主たちの声が聞こえてくるではないか。
「こ、こらっ! そんなに暴れるなって!! 痛くしないから」
「オスカーやめて!! お願いっっ!!」
「くっ! そ、そんなに動くと違うところに……」
「やっ、痛いっ! い、いやぁぁぁぁっっ!!」
執事と使用人達は、開け放たれたままの居間の扉まであと少しというところで固まってしまった。
二人が心配なのは心配なのだが、いま踏み込むのはまずいのではないか? いや、そもそも心配する必要もないのでは?
それでもあまりにもロザリアが嫌がっているように聞えるし、それに対して「あの」オスカーが無理強いするというのも変なようにも思える。
ついに意を決した執事が、こほんと咳払いをすると一歩前に踏み出し居間の扉に手をかけた。オスカーに怒鳴られる覚悟も出来た。
そして目をぎゅっと閉じると、勢いをつけて居間の中へと転がるように駆け込んだ。
「お二人とも、どうかなさいましたかっ!?」
「いい加減にしてっ!!」
執事とロザリアの声がだぶる。驚いて執事が目を開けるのと同時に、ロザリアの右手がオスカーの顔面を直撃した。
「つっ!!」
ロザリア一人くらいなら押さえ込めると思っていた油断があったのだろう。いきなりのカウンターにさすがのオスカーも防御できずにまともに殴られると、思わず身体をひいてしまった。
その隙にロザリアはどすんと床に滑り落ちたが、しばらくぼう然と自分の手を見つめていた。
「わたくし……」
「どうなさったんですか!? 旦那様、奥様っ!?」
訳がわからず(思っていた状況が目の前になかったことにかなりほっとしているが)珍しく動揺している執事の言葉を聞いたロザリアは、はっと我に返ると恥ずかしさで顔を真っ赤に染めた。そしてすぐに立ち上がると、わなわなと全身を震わせながらオスカーを睨みつける。
「オ、オ、オスカーっっ!!」
問われたオスカーの方はといえば、「結構効いたなぁ」と自分の頬を擦りながら身体を起こし、入り口で困惑している執事に向かって呑気に苦笑してたりする。
「ああ、騒がしくて悪かったな」
「いえ、あの……よろしいのですか?」
「なにが?」
執事の問いかけに軽く首を傾げたオスカーだったが、執事の目線を追ってロザリアに向き直った途端、ほんの少し顔を引きつらせた。
「ロ、ロザリア……?」
「……嫌い」
「え?」
「あなたなんて大っ嫌いっ!! 出て行かせていただきますっ!!」
「はぁ??」
いきなり告げられた言葉にオスカーが混乱している隙に、ロザリアはその場から一気に玄関まで駆け出した。しかし、しばらくして再び食堂へと向かう足音が聞こえたかと思うと、バスケットを抱えたロザリアがひょこっと居間を覗き込んだ。
「お、おい、ロザリア……」
「あなたなんかに食べさせるのは勿体ないから、これは持って参りますわっ!」
言うとロザリアはオスカーに向かって、あろうことかべーっと舌を出して見せた。そして再びバタバタと足音が屋敷中に響いたかと思うと、すぐに玄関が大きな音を立てて閉じられる。
しばらくの静寂の後。
黙っているオスカーの様子を心配したのか、執事が恐る恐る声をかけた。
「旦那様……い、いかがなさいましたか?」
が、次の瞬間、オスカーはぶるぶると身体を震わせると、ついに我慢できないとばかりに笑いだしたのだ。
「アッハッハッハ! ま、まいったな」
「オ、オスカーさま……?」
くっくっと笑い続けるオスカーの様子に、気でも違ってしまったのかと心配する執事だったが、オスカーはなんとか口がきけるようになると、彼を見上げて言葉を漏らした。
「いや大丈夫だ。狂ってなんかいないから安心しろ。あんまり……おかしかったんでな」
「おかしかった……とは?」
天井を見上げながら呼吸を調え、前髪を掻き上げながらオスカーは呟く。しかしまだ思い出し笑いをしていたりする。
「見たか? あのロザリアが、いつもお前達の前では完璧を保とうとしていたロザリアが、俺に向かって、お前達の目の前で、まるで子供みたいに拗ねて見せたんだ。これが笑わずにいられるか?」
「……はぁ」
「拗ねたのではなくて怒っているのでは?」という言葉を飲み込むと、執事は曖昧な返事を返す。
「ですが、あの……奥様は出ていかれるとおっしゃっていましたが」
「ああ、それなんだ」
いきなり現実に戻ったオスカーは、ふうっと息を吐きだして視線を暖炉の方に向ける。
「ようやく可愛いところが見れたのは嬉しいんだが……さて、この後どうやってお姫さまのご機嫌を直すかが問題なんだよなぁ」
「そちらの心配をする方が先なのでは。いや、そもそもからかうのをおやめればいいのでは?」という言葉も飲み込む。
主の厄介な性格を、この忠実な執事は十分に知り尽くしているからだった。