眩暈

(8)

「オスカー、よろしいかしら?」

遠慮がちなノックに、オスカーは顔を上げた。そして戸口に立ったロザリアの姿に優しい笑みを浮かべた。

「ああ。もうすぐ終わるから、少し腰掛けて待っていてくれないか?」

「あ、そうじゃなくて。ちょっと……お話がしたくて」

「ん?」

一旦書類に落とした視線を、再び上げてオスカーはロザリアを見つめた。すると彼女は微かに俯くと、すっと顔を上げて照れ臭そうに笑った。

「あ、やっぱりいいですわ。別に今すぐ話さなくてはいけない事でもないですし……ごめんなさい、お仕事の邪魔をしてしまって。あの、じゃあ、また後で」

取り繕うような笑みを浮かべたまま、ロザリアは慌てて背を向けドアノブに手をかけた。が、彼女が喋っている間に立ち上がってこちらに近づいてきていたオスカーの手に阻まれてしまう。

「待てよ。いま話したくて来たんだろう?」

言うと、ドアノブを握っていたロザリアの手を上からそっと押さえ、開きかけていたドアを再び閉める。そして背を向けて俯いているロザリアの肩へ、開いている左手を乗せた。

「話したいときに吐き出した方がすっきりするぜ?」

「でも……お仕事が」

「もうあらかた片づいてるんだ。君の話を聞いてから続きをしても十分間に合うさ。……君の方はどうなんだ?」

「あ、わたくしは一段落したので、あとはもう……」

「なら、決まりだな」

そう言うとオスカーは、背を向けているロザリアを改めて向き直らせ、ドアに片手を付いて彼女を見下ろしにこっと笑った。

「さて。お願い事は何かな、補佐官殿?」

「あの……でも、やっぱり、わたくし……」

「おいおい、らしくないな。遠慮はしなくていいって、いつも言ってるだろう? 我が姫君のご所望とあらば、空に浮かぶ月だって射落としてやろうと思っているのに」

「……大げさね」

オスカーの言葉に、ようやくロザリアは相好を崩した。そして、観念したように溜息をつくと、オスカーを見上げた。

「じゃあ言う事にしますわ。あの……実はジュリアスのことなのだけれど……」

一瞬オスカーの表情が強ばる。が、すぐに平静さを取り戻し、ただ黙ってロザリアを見つめた。

ロザリアは恥ずかしいのか、俯いたままだったので、そんなオスカーの表情の変化には気がつかないまま言葉を続ける。

「あの方、とても孤独なのだと思うの。確かに大勢の人々から信頼されて頼りにされてはいるけれど、あの方自身が誰かに頼るという事はないでしょう? それって、とても辛くて孤独な事だと思いません?」

「……そうだな」

「わたくしもそうだったから……あの方の気持ちがよくわかるんですの。頼られてばかりだったり、一人で立ってばかりいるとね、時々無性に……誰かに甘えたくなるの。頼ってしまいたくなるものなのよ」

「だから……」と言うとロザリアは顔を上げ、オスカーを真剣な眼差しで見上げた。

「オスカー、あの方をこれからも支えてあげてね。たぶん、貴方しかあの方を支えてあげられる人はいないと思うの。あの方も、恐らくそう思っているわ。だから……お願い」

オスカーはしばらく無言だったが、やがて軽く目を閉じてふっと笑った。そして身体を少しかがめるようにしてロザリアに顔を近づけ、その頬に手を添えてそっと撫でる。

「大丈夫だ。君に心配をかけなくても……俺はこれからもそうするつもりだったぜ」

「本当?」

「……ああ」

オスカーが小さく頷くと、ロザリアはようやく安心したようにほっと息をついて微笑んだ。その微笑みに、オスカーは胸の奥がきりっと小さな痛むのを感じた。

たとえジュリアスが「もう彼女のことはなんとも思っていない」と言った所で、ロザリア自身がジュリアスを思っている以上は、オスカーの焦燥感は消えたりはしない。

それでもオスカーは平静を装った。そして、いかにも疑問だと言わんばかりに首を傾げた。

「けれど……どうしていきなりそんなことを?」

「え? そ、それは……あの。あの……日の曜日に、貴方が……とても怖い顔をしてジュリアスを見ていたから。だからわたくし、貴方とジュリアスがてっきり喧嘩でもしてしまったのかと心配だったの」

「……なんだって?」

今度はオスカーが驚く番だった。

「わたくしの前ではいつもと同じように振る舞っていらしたけれど、もしかしたら本当は、わたくしに気を使って、いつも通りに振る舞っているのかもしれないって……」

思わずオスカーは顔を背けてしまった。誰にも気がつかれていないと思っていたのに、寄りにもよって一番気付かれたくない相手にしっかりばれていたとは。

ロザリアは、自分の言葉にすっと顔を背けてしまったオスカーを、不安げな面持ちで見上げた。

もしかして余計なことを言ってしまったのだろうか? 彼の気分を害してしまったのではないかと、急に不安が込み上げた。

「あの……オスカー? もし、気に障ったのならごめんなさい……」

恐る恐る呟くと、オスカーの頭が微かに動いた。が、まだこちらを向こうとはせずに顔を背けたままだ。

ロザリアは所在なげに俯いた。と、そこにオスカーの思ったよりは落ち着いた声が響いた。

「もし……俺とジュリアス様が喧嘩をしたら……君はどうする? どちらにつく?」

「え?」

「もしもの話だ。そうなったら……どうする?」

言うとオスカーは振り返った。問い掛けの冗談めいた内容に似合わずに、意外にも真剣な表情だった。

ロザリアは一瞬躊躇ったが、口元に手を当てて少し考えた。そしてぽつりと呟く。

「どちらと言われても……それはその時の状況で正しいと思う方の意見を支持しますわ」

「模範的な解答だな……」

オスカーはくすりと笑った。

「じゃあ質問を変えよう。もしも世界が滅ぶとしたら……」

「オスカー! そんな不謹慎な質問はっ!」

「そうムキになるなよ。もしもの話なんだから」

「でも……いくら架空の話だと言ってもそんな……」

「現実に起こりはしないさ。だからこうしてたとえ話のネタにしてるんだ。……安心しろよ」

「……わかりましたわ。じゃあ、世界が滅ぶとして、なんですの?」

ロザリアは呆れたように溜息をつくと、小さく肩を竦めて先を促した。

するとオスカーは目を細め、壁に両手をついてロザリアを覆うように立つと呟いた。

「俺とジュリアス様が君に手を差し伸べてこう言った。『一緒に死のう』」

びくりとロザリアは身体を震わせ、オスカーを見上げた。オスカーはロザリアを見つめていた。その氷を思わせる薄青の瞳は、ロザリアを射すくめるような強い光を宿している。

「……そうなったら、君はどうする? どちらの手を取る?」

「……わたくし、は……」

ロザリアの蒼い瞳が揺らいだ。

「俺か、ジュリアス様か。……どちらと一緒に死ぬ?」

オスカーは苦しそうに呟いた。もしもここで彼女の口が、自分以外の者の名を呼んだとしたら……考えただけで感情が沸騰しそうに熱くなってくるのを必死で押さえながら。

「……わたくし」

ロザリアは呟くと、思わず俯いた。そして小さく首を振る。

「わたくし……どちらも選びませんわ」

「それは駄目だ。どちらかを……選ばなければいけないんだ」

「でも……選べません……だって」

言うとロザリアは顔を上げた。切なげに寄せられた眉と瞳の端に浮かんだ涙に、オスカーの胸がぎゅっと締めつけられる。

「貴方ではないですもの。たとえどんな状況でも『一緒に死のう』なんて貴方が言うはずないですもの。わたくしの知っているオスカ?は……わたくしの好きなオスカーなら、きっとこう言いますわ」

そう言ってロザリアは微笑んだ。目の縁に溜まった涙が、頬を伝って落ちた。

「『一緒に生きてくれ』って……」