眩暈

(2)

ようやく最後の書類にサインを入れ終わると、オスカーは軽い溜息をついて、肩に手を置いて首を回す。

「お疲れさまでした」

侍従が軽く会釈をすると同時にオスカーは立ち上がり、背後の窓から空を見上げた。

「さてと……まだ日は落ちていないところで、お姫さまを迎えに行くか」

言うとオスカーはカーテンをさっと引き、足早に扉に向かうと、掛けてあったマントを手に取った。

「オスカー様」

書類を整理し終えた侍従が顔を上げ、今しも部屋を後にしようとするオスカーの後ろ姿に声を掛ける。

オスカーは扉を閉めようとしたところで立ち止まり「なんだ?」と問いながら首だけ振り返った。

「補佐官殿はおそらくお部屋にはいらっしゃらないかと存じます。先程、廊下ですれ違いまして、これから各守護聖様のお部屋に書類を届けるのだとおっしゃっておられましたから」

「……どちらの方へ向かったんだ?」

オスカーがそのままの姿勢で言った。侍従は書類をクリップで留めながら「私がすれ違いましたのは15分ほど前でして、ちょうどランディ様のお部屋の前でした」と答えた。

オスカーは顎に手を当ててしばらく考え込み「なら、今ごろはジュリアス様のところかもしれないな……」と小さく呟く。そして侍従に向かってウィンクをし、「ありがとう」とひと言伝えて扉を閉じた。

 

通い慣れたジュリアスの執務室の扉を数度ノックする。すると中から「誰だ?」と問い掛けるジュリアスの返事が返ってきた。

「私です。よろしいですか?」

「ああ、オスカーか。入れ」

「失礼いたします」

オスカーは扉を開くと恭しく一礼した。そして顔をあげると、ほんの少し驚いた表情を浮かべる。が、それに気がつかなかったジュリアスは、オスカーに視線を移して穏やかな表情を浮かべていた。

「オスカー、ちょうどよいところへ来たな。いま、そなたに連絡をしようと思っていたところだ」

「は、はぁ」

オスカーが扉のところに突っ立ったまま部屋の中に入ってこようとしないので、ジュリアスの傍らに立っていたロザリアは曖昧な笑みを浮かべる。

「オスカー、どうなさいましたの?」

「あ、いや。君が……いるとは思わなかったので」

「なんだ? 補佐官殿を迎えに来たのではなかったのか?」

「はぁ……それはそうなのですが」

オスカーの答えは、いつもの彼に似付かわしくなく、なぜか歯切れが悪かった。だがジュリアスは、微かに怪訝そうな表情を浮かべただけで、深く追及しようとはしなかった。

「まあよい。せっかくだからロザリア、このままオスカーに送ってもらうといい」

「ですけれど、まだクラヴィスに書類を渡していませんの」

クラヴィス、の名が出た途端、ジュリアスは表情を険しい物へと変えた。

「なんだと。あの者は執務室にいなかったのか?」

「ええ。先程伺ったら、気晴らしだと行って席を外したところだと侍従が教えてくれましたので」

「ジュリアスをお伺いした後で、また改めてお訊ねしようと思っていたんです」と、ロザリアは手にしていた書類を小さく掲げて見せた。

するとジュリアスは溜息をつき、額に手を当てて眉をひそめた。

「まったくあの者は……。幼き者たちの模範とならねばならんのに、率先して執務をさぼるとは何事だ」

言うとジュリアスはロザリアに向き直り、彼女の手からすっと書類を抜き取った。

「ジュリアス?」

「これは私が届けよう。あの者に言って聞かせねばならぬこともあるからな」

「……よろしいの?」

ロザリアが伺うように小首を傾げると、ジュリアスはそれまでの険しい表情をふっと緩めて微笑み、オスカーをちらりと見てから再びロザリアに視線を戻した。

「ああ、私が責任をもってクラヴィスに届けるとしよう。それゆえ、そなたは早く帰るが良い。そこでオスカーが待ちくたびれておるぞ」

言うとジュリアスは、オスカーを再び見つめて口を開いた。

「オスカー、補佐官殿のエスコートを頼んだぞ。きちんと屋敷まで送り届けて差し上げるようにな」

「承知しました」

オスカーは姿勢を正すと、即座に返答する。そこで、ようやくロザリアは軽く頷いた。そして数歩歩いてオスカーの隣まで進むと、くるりと振り返ってジュリアスに向かって礼をする。

「では、ジュリアス。わたくしはこれで失礼いたしますわ」

「ああ、ごくろうだった」

オスカーが開けてくれた扉から、身体を半分外に出したところでロザリアは立ち止まり、後ろを振り返ってにっこりと笑った。

「ジュリアス。約束……忘れないで下さいませね」

ジュリアスは書類から目を転じ、ロザリアの笑顔を見つけて柔らかく微笑んだ。

「ああ。……楽しみにしていよう」

「では。……お休みなさいませ」

笑みを浮かべたままそう呟くと、ロザリアは扉をゆっくりと閉じた。