聖殿の廊下歩み続けようやく最後の曲がり角を曲がったところで、ロザリアの足が止まった。
冷や汗が背中をつたう感覚の後、喉が一瞬で乾く。頭では「身体が動かない」と思っているのに、実際には彼女の全身は小さく震えていた。
女王の間へと続く重厚な扉に背中を預け、腕を組んで立っていた人物は、響いてきた足音に反応して微かに身じろいだ。そして顔を上げると、金縛りにあったように立ちすくむロザリアに向かって鋭い視線を向けた。
「――ずいぶん遅かったな」
「オ……スカー……」
ようやく搾り出したような声を漏らすロザリアを、オスカーはじっと見つめている。
「このまま……来ないでくれたらいいと思っていた」
口調はあくまでも穏やかだったが、自分に注いでいる視線の鋭さから彼の胸のうちを理解し、ロザリアは思わず息を飲んだ。
「……俺の勝手な憶測なのだと。けれど……君は来たんだな」
彼は――オスカーは怒っている。恐らく今までにないほど、彼は激しく怒っているのだ。
「…眠って…いたんじゃないの?」
言った途端、ロザリアはあまりにも間抜けな質問をしたと後悔した。彼の神経をこれ以上逆撫でしないほうがいいと思って、当たり障りのない言葉で誤魔化そうとしたのに。
だがオスカーは、ふっと微かに笑みを浮かべただけだった。が、その瞳は依然冷たく光ったままだ。
「言っただろう? 君が隣にいるのに眠るわけがないと…」
「……ごめんなさい」
彼の鋭い視線に堪えられなくなって、ロザリアは思わず目を背けてしまった。が、オスカーは無言で組んでいた腕を解いただけで、なおもロザリアを睨んでいる。
「なぜ謝る? それとも、悪い事をしたっていう自覚があるのか?」
「……貴方の好意を、わたくしは利用したわ」
「わかっててやったっていうわけか……なおさら始末に終えないな」
「でも、わかって。わたくし、やっぱり出来ないの。あの子を自由にしてあげたいけど、だからと言って他の人を犠牲にするなんて……そんな事、わたくしには出来ない。だから……っ」
なんとか彼を説得しようとしているロザリアを黙って見つめていたオスカーは、不意に歩き出した。そして必死で訴え続ける彼女の両の手首を掴むと、そのまま壁に彼女を押し付けた。
背中から叩きつけられた衝撃で、ロザリアは思わず咳込む。が、そんなことには構わずに、オスカーは細い手首を更に強く握りしめた。
「人を犠牲にすることは出来ない、か……。そうだな、確かに君が女王になれば、見も知らぬ一人の少女は助かるだろうさ」
「……」
「そして君も満足だろうよ。自分だけが犠牲になっている。私は悲劇のヒロインなんだっていう錯覚に酔いしれてな」
「ち、違うわ! わたくしはそんなっ!」
オスカーの感情の高ぶりが怖くて、ロザリアは顔を青ざめさせながら叫んだ。と、その途端オスカーは手首を掴んでいた右手を離し、彼女の顔の左側すれすれの壁を思いきり拳で叩いた。
ガツンッ!という大きな音が左耳のすぐ側で聞こえ、ロザリアは瞬時に息を詰める。と、オスカーがロザリアを抱えるようにして壁に頭を寄せ、苦しそうに目を閉じた。
「だが……俺はどうなる? 君を取り上げられて、独りで生きろっていうのか?」
言われてロザリアは、大きく目を見開く。だがオスカーは、もう彼女の顔を見てはいなかった。壁に頭をぶつけたまま、苦渋の表情を浮かべてぎりっと唇を噛む。
「君の力になりたいと思ってした事が全部裏目に出るなんて……とんだ道化だ。くっ、さぞかし満足だろうよ。この俺をまんまと出し抜いたんだからな」
「……違う。違うの」
「この期に及んでまだ言い訳か? 対したもんだぜ、補佐官殿。だが……俺を馬鹿にするのも大概にして欲しいな」
「オスカー、違うの。わたくしは……」
そんなつもりはなかったと言おうとして、ロザリアは横を向いた。するとオスカーが急に身体を起こし、彼女の肩をぐっと掴んで詰め寄った。
「何が違うっていうんだ!? 君は俺の提案を受け入れる振りをして勝手に事を進め、俺を誘って油断させて使い捨てようとしたんだ! 違うかっ!?」
ロザリアは拳を握りしめて思いきり叫んだ。
「違うっ! そんな酷いこと、考えたこともないわ!」
それを見たオスカーは、やがて自嘲するような笑みを浮かべた。
「考えたこともないって? じゃあ、考えもせずに実行したわけか。哀れな道化にご褒美をやっておけば、満足するだろうって無意識に考えたわけだ」
「そんなっ……そんなつもりだったんじゃないっ! わたくしは……」
「じゃあ、なぜ俺に抱かれたりしたんだっ!?」
「決まってるじゃないっ! 貴方がす……っ!」
ロザリアは真っ直ぐにオスカーを見ると、迸るように叫ぶ。が、自分が何を言おうとしているかに気がつき、はっとなって思わず口をつぐんでしまった。
「……ロザリア」
きまり悪そうに顔を背けるロザリアを、オスカーはまじまじと見下ろしていた。やがて彼は深い溜息を吐きだすと、ロザリアの身体をそっと抱き寄せて、その髪に顔を埋めた。
「……まったく。どうして君は、肝心なところでいつも口をつぐんじまうんだ?」
「だって……言ってしまったら、わたくし…もう……離れられなくなってしまう。覚悟したのに……果たせなくなってしまう……から」
「だったらやめればいい……」
「そんなこと……出来るわけがないじゃないの。あの子がいなくなってしまったのに……」
「……やめろよ、ロザリア。そんな覚悟は捨てちまえ。君は……俺の側にいればいい」
「お願い……もう決めたの。わたくしは女王になるって……あの子の代わりに、わたくしは……」
ロザリアは苦しそうに顔を伏せて、オスカーの身体をそっと押し戻す。そして顔を上げると、苦渋の表情を浮かべているオスカーを見上げて寂しそうに笑った。
「ありがとう、オスカー。貴方に会えてよかった。貴方がわたくしを忘れても、わたくしは貴方を……忘れないわ。いつもいつまでも……この扉の向こうで……この世界と貴方の事を、ずっと……」
そう言ってロザリアは、オスカーの腕からそっと手を離し、女王の間へと続く扉に手をかけた。
「待って!」
ロザリアを引き戻そうと腕を伸ばしたオスカーは、後ろからかけられた凛とした声に思わず動きを止めた。
ロザリアもまた扉に手をかけたまま振り返り、驚きのあまり身体を強ばらせた。
「……アンジェ……リーク」